露乃瑠璃の回想録

今川の黒蜻蛉

桶狭間の戦いから幾年かが経過した頃、家康は妙な噂話を耳にした。
岡部元信が信長から取り返した主の首を臨済寺の池で洗い清めて以来、妙な出来事が起こっているらしい。
池の水が流れ込んだ田んぼでは血のように赤く染まった稲がたびたび実り、義元の命日に至っては黒い羽を持つ蜻蛉が用水路上へ一斉に湧くのだという。
人々はこれを〝義元の怨念〟と恐れ、桶狭間の戦況など知る由もない無邪気な童ですら黒蜻蛉を嫌って捕まえようとしなかった。
まるで平安の世から伝わる御伽噺のようだとはじめは鼻で笑い飛ばしていたのだが、どうしてだか駿府を訪れたついでに噂の真相を確かめてみたいという衝動に突如駆られ、従者に無理を言って奇しくも義元の命日にあたる本日、臨済寺を訪れる運びとなったわけである。

「こ、これは……」

背後に控えていた従者はあまりの光景に息を呑み、何歩か後ずさる始末であった。
家康も眼前の光景に思わず双眸を見開き、しばし言葉を詰まらせてしまう。
まるで用水路を覆い隠さんばかりに飛び交う蜻蛉の大群は、不気味としか言いようがなかった。
腐肉に群がる蛆の如く水の流れを辿る黒い羽々は、義元の怨念、もしくは彼の流した血の匂いでも嗅ぎ取っているのだろうか。

「家康様、長居はよした方が良いでしょう。此処はあまりにも不吉です」

死の香りから逃れるかの如く自身の口を掌で覆いながら、従者は言う。
迷信や神話の類など眉唾物であるといつもなら取り合わない家康であったが、この凄まじい光景を目の当たりにしてしまってはその信念も容易く崩れ落ち、ほとんど無意識で彼の提案に何度も頷いてしまっていた。
――が、その時である。

「待て、なにか居る」

池の向こう岸に、鮮やかな瑠璃色の輝きを見つけた。

「あら、今年は松平家の方がいらっしゃったのですね」

黒い羽ばたきに霞む視界の隙間から、少女が笑いかけてくる。
腰に大小を差した袴姿の彼女は、その背に澄んだ水面のような蜻蛉の羽根を持っていた。
もしや黒蜻蛉たちの親玉か何かだろうかと思わず訝しむが、その美しい出で立ちと穏やかな口調は、この不気味な群れに全くそぐわない。

「其方は黄泉の使いであるか」

家康が尋ねると、蜻蛉の少女――露乃瑠璃(つゆのるり)は控えめな微笑をその可憐な口元に携えたまま、小さく頷いた。

「日ノ本中を旅して、この世に残る怨念を一つ残らず彼らに食べさせています」

言いながら瑠璃が指を伸ばすと、その先に一匹の蜻蛉がふわりととまる。

「恨みに縛られた死者に代わって、魂を少しずつ天へ誘うのです。ほら、お行きなさい」

告げられた合図と共に広げた羽根をはためかせ、漆黒の蜻蛉が再び宙へと舞い上がった。
現世に残された怨念に肉体を染められたおぞましいそれは、まるで天に還るかの如く真っすぐと上昇し、やがて光の中へ消えていく。
その腹いっぱいに恨みを食らいつくし、黄泉へと旅立ったのだろう。

「今川トンボの正体は、恨みを食らう黄泉からの使者でしたか。餌に困らぬこの戦国の世が、彼女たちにとって喜ばしいことなのか、それとも嘆かわしい事なのか……」

従者のそんな呟きを耳にした家康は、ふとこの国の行く末について思考を巡らせる。
戦を糧として暮らすのは、なにも黄泉からの使者だけではない。
首級を挙げる事で飯を食う武士たちは太平の世が訪れた後、どう生きるのだろう。
そして、日ノ本の頂に立った天下人は齎したその平穏の中で今度は何を目論むのか。
天下布武を謳う信長は、武力で寺家と公家を制し、政権を掌握するつもりでいるらしいが――その先は、どうなる。
いつの日か泰平は覆され、再び争いが始まるのではないだろうか。
途端に、人々の遺した怨念を食らい続ける蜻蛉たちが憐れに思えてきてしまう。
この世の恨みを食い尽くせるはずがない、と。
黒蜻蛉を操る彼女は、自身の行いが不毛であると承知しているのだろうか。
稲穂を赤く染める程の怨念をその身体いっぱいに溜め込んだ蜻蛉が次々と黄泉へ旅立つ光景を見上げながら、家康はふと思う。
永遠とは残酷だ。
終わらぬ輪廻を断ち切らぬ限り、真の泰平など訪れはしないだろう。
武力制圧による統治を目論み続ける限り、この忌まわしき蜻蛉は家康の周りを飛び続けるに違いない。

「……ならば、法で律するまでだ」

眼前を飛び交う義元の怨念が、このとき家康にひとつの決意を抱かせる。
自身が天下を手にしたあかつきには、武力をも法で縛るのだ――と。