萵苣の回想録

明智城襲撃

敗北に打ちひしがれている時間など、今の萵苣たちには残されていなかった。
落城は避けられぬと明智家の未来を光秀に託し、光安らが腹を斬ったのはつい先刻のこと。彼らを弔う暇さえ与えられぬまま、萵苣(ちしゃ)は光秀と共に瀬田長山を駆け下りていた。

「くそっ、次から次へと……!」

萵苣は手にした双剣で立ちはだかる敵兵を次々と薙ぎ払い、文字通り退路を切り開き続ける。
しかし、こちらが敗北を確信したように、相手方もまた勝利を確信していた為、彼らの士気は萵苣たちの心をへし折らんばかりに高い。

「光秀、麓までそう遠くはない。一気に行くぞ」

襲い来る敵兵の喉を裂きつつ、萵苣は獣じみた身のこなしで竪堀を滑り落ちるように駆け抜けていく。
後に続く光秀は必死の形相でなりふり構わず懸命に手足をただ振り続け、促されるまま前進するのみである。
生への執着だけが今、彼の心身を突き動かし、明智光秀という存在のすべてを支配していたのだ。

「死んでたまるものか……」

萵苣に続き、半ば転がるように滑落しながら光秀が唸る。

「俺は生き延びるぞ、萵苣」

敵の手に落ちた城を背に逃亡を続ける憐れな姿には似合わぬ気迫の込められたその言葉に、萵苣の両耳がぴくりと疼く。
生真面目でありながらもその心に滾るような野心を秘めた彼の性分が、萵苣は昔から気に入っていた。
静謐さの中に潜む激情の熱に魅せられて以来、なにがあっても光秀についていくと決めたのだ。

「……ああ。アンタは、こんな所で死ぬような男じゃない」

木の葉に沈みかけていた光秀の身体を抱き起してやりながら、萵苣は小さく微笑んだ。
追手の姿はもう見当たらない。まずは落城を優先と踏み、追跡の手を緩めたのだろう。

「例えなにを奪われようとも、俺たちは生き延びる。そうだろう、光秀」

生きてさえいれば、いつの日か光明が差す。
無様な姿を曝そうが、誹りを受けようが、命がなければ意味がない。
死人には、なにを見ることも聞くことも出来ないのだから。
萵苣は滴る鮮血も拭わぬまま手にした双剣を腰の鞘に納めると、半ば膝の力を失いつつある光秀をその肩に担ぎ直し、生き延びる為の退路をひたすらに歩み続けたのであった。

比叡山焼き討ち

空を茜に染め上げたのは、朝陽ではなく紅蓮の炎であった。
なにもかもを呑み込みながら、それは踊り狂い燃え広がっていく。
人々の悲鳴も、生命も、信仰心さえも灰となり、焼き尽くされる様はあまりにも無情だ。

「魔王は容赦がないな。それが魔王たる所以、か……」

萵苣が苦々しく吐き捨てる隣で光秀はというと、冷めた瞳に紅蓮を映し、無感情に戦況をただ眺めている。
人一倍の野心と情熱をその胸に秘め、時には手段を選ばぬ冷淡さを持つ光秀であったが、第六天魔王の異名を持つ信長の所業は狡猾な男をも閉口させるほどに容赦がなく、徹底的だった。
此度の焼き討ちにはさすがの光秀も苦言を呈したらしいが、それを素直に聞き入れるような男であれば彼がここまでのし上がる事もなかっただろう。
天下をその手にしようと目論む男の意志は、己の身を滅ぼすその日まで揺らぐことなどない。

「光秀、そろそろ本陣に戻るぞ。俺たちの任務はもう済んだ」

こんな景色をいつまでも眺めていては心に毒だと萵苣が声を掛けると、光秀の双眸が僅かに揺らいだ後、こちらをゆっくりと見下ろした。

「……この炎が鎮まる事はないだろう」

むしろ、我らが主君は日ノ本を支配で焼き尽くそうとしているのだ。
虚ろな声音でそう囁く光秀はもしかすると、信長という男に失望したのだろうか。
が、しかし。次の瞬間、彼が浮かべた表情はまるで求め続けた答えに巡り会えたような清々しさに満ちていた。

「……お前、一体なにを考えている。返答次第では叩っ斬るぞ」

魔王の瘴気にでもあてられたのかと問えば、光秀は否定も肯定も示す事はなく、目の前の惨状に似つかわしくない穏やかな微笑を一つ零すのみである。
何かを悟ったような表情に妙な予感と胸騒ぎを覚えた萵苣であったが、その正体を長らく掴めないまま時は過ぎ――。
天正十年、六月二日。
光秀は比叡山を焼き尽くした炎と同じ紅蓮の矢を、今度は自らの主君目掛けて放ったのである。

本能寺の変

見上げた天空には未だ星々が幾つも瞬いていたものの、夜明けが間もなく訪れるであろうことを肌で悟った萵苣は腰を上げ、一晩のうちにすっかり凝り固まってしまった体の節々をほぐすように大きく伸びをした。
本来であれば萵苣は光秀と共に明智の軍勢として毛利と交戦中の羽柴軍と合流する予定でいたのだが、信長の護衛を命じられた萵苣は明智軍を離れ、京の本能寺に滞在中であった。

「光秀め、一体なにを考えているのか……」

戦のたび、一番太刀として戦果を挙げてきた萵苣が本隊から外れるなど、前例のない采配だ。
自らの能力に自惚れているわけでは決してなかったが、それでも人間同士の戦において獣の力を持つ萵苣が前線に居るのと居ないのとでは、戦況が大きく変わってくる。
光秀の策を迅速に実行する為には、萵苣の素早さが必要不可欠なのだ。特に今回は秀吉の援軍として出陣したのだから、獣の俊敏さが活きる戦であっただろう。
知略に優れた光秀のことだ、何か特別な事情があるに違いないと萵苣はたびたび己に言い聞かせてはいるのだが、腑に落ちない。
今度顔を合わせたときに必ず問い質してやろうと決意をしつつ、萵苣が本能寺内の巡回に出かけようと縁側から一歩踏み出した、そのときだった。
静寂をじわじわと切り裂くように、遠方から勝鬨の雄叫びが突如とどろく。

「なんだ……?」

ただ事ではないと瞬時に悟った萵苣は素早く駆け出すと、しなやかな身のこなしで本能寺の瓦屋根へとよじ登り、高所から目を凝らした。

「あれは……」

この本能寺を目指しているのだろう、松明の行列がまず萵苣の瞳に飛び込んだ。
そして無数の灯りに照らされて浮かび上がる桔梗の旗――。
あれは、明智の軍勢だ。
毛利の軍勢はどうなった、羽柴軍は無事なのか。
状況が呑み込めず、萵苣はしばらく屋根の上からその不可解な光景を唖然と眺めていたのだが、桔梗紋の群れが明らかな殺意を持って本能寺内へなだれ込んだ事をきっかけに、ようやく光秀の真意を悟る。

「敵は、本能寺にあり!」

これは、謀反だ。

「あいつ……!」

怒りが瞬時に沸騰し、全身が燃えるような熱を持つ。
あの男は、主君を裏切る為に萵苣を自分から遠ざけたのだ。

「やらせるものか、決して……!」

怒りの衝動のまま、萵苣は瓦屋根から縁側へ飛び降りると、恐らく事態をいち早く信長へ報告するために駆けてきたのだろう、森蘭丸の背中を捕まえた。

「光秀の姿は見たか? 奴はどこにいる」

光秀の右腕といっても過言ではない立場の萵苣である、お前も謀反に加担しているのだろうと責められるかと危惧したが、殺気に満ち溢れた双眸と苛立つ口調で光秀の居場所を問い詰める姿を見て萵苣もまた裏切られた側の人間である事を悟ったらしい。
蘭丸は神妙な面持ちのまま、首を横に振った。

「ですが、指揮を執っているのは間違いなく光秀殿かと」
「そうか……。俺は光秀を討ちに行く。信長様はお前に任せた」

用件を告げるや否や腰に納めた双剣を抜き取り、萵苣は再び風の如く駆け出した。



見覚えのある兵士たちの喉元を、躊躇なく掻き切りなぎ倒していく。
しかし、未だ光秀の姿は視界の端にも留まらない。彼の差し向けた軍勢はあまりにも数が多すぎた。

「貴様、今すぐ吐け! 光秀は今、何処にいる!」

手近な兵士の胸倉を掴み問い質したが、既にこと切れていたようで返事はない。

「くそっ、このままじゃ……!」

信長を光秀に討ち取らせる事となる。
それだけはあってなるものかと萵苣が舌を打った、その時だった。
どこからか火の手が上がり、本能寺は瞬く間に炎に包まれた。
明智の軍勢が放ったものか、それとも信長自身によるものか。それを確認する暇もないまま、萵苣は退却を余儀なくされる。
この手で光秀を切り裂いてやらないと気が収まらなかったのだが、あまりにも分が悪い。

「何故だ……。何故、こんなことを……!」

あの男は、主君と共に長年連れ添った萵苣をも業火で焼き払おうと企んだのであろうか。
燃え盛る炎に炙られて皮膚は酷く熱を帯びていたというのに、爪先から痛みを伴う程に冷たい何かが駆け上がって来る。
失望と悲哀が入り混じったその奇妙な感覚を、萵苣は二度と忘れることはないだろう。

山崎の戦い

本能寺炎上より二日後。
光秀謀反の一報を耳にした秀吉は急遽、毛利との和睦を締結。主の仇を討つべく、軍を京へと進めた。
炎上する本能寺からの逃走にどうにか成功した萵苣はその後、進軍中であった羽柴の軍勢と合流。
明智軍との激突が、まもなく始まろうとしていた。

「どうして光秀殿はお前を信長様の元へ置き去りにしたんだろうな」

大将らしかぬ呑気な口調で、馬上から秀吉が謳うように問いかけてきた。

「……主君殺しになど、俺が賛同するはずないと知っていたからだろう」

進行方向だけを見据えたまま、ぶっきらぼうに萵苣は吐き捨てる。
いつからあの男が謀反を目論んでいたのかは分からない。しかし、心当たりが一つある。
燃え盛る比叡山を見上げながら微笑んだ光秀の顔だ。
主がそうしたように、また光秀も紅蓮の炎で築き上げたすべてを焼き尽くし、なにもかもを手に入れようとしたのだろうか。
共に戦を切り抜けた萵苣との過去をも、ただの灰にして――。

「絶対に許すものか、あの男だけは……」

下唇を噛み、唸るように悪態をこぼす。
共に過ごした時を焼き捨てると言うならば、こちらも刃で立ち向かうまでである。
光秀の首は必ずこの手で落としてみせようと胸に誓いをたてたその時、馬上の秀吉が再び謳うように呑気な言葉を投げかけてきた。

「お前を裏切らせたくなかったんだろうな、光秀殿は」

裏切り者である光秀の肩を持つような言い草に萵苣は腹を立て、頭上の秀吉を思わずキッと睨み上げたのだが、当の秀吉はこちらの顔など見てもいない。

「なっ……」

それどころか、呑気な口調とは裏腹に彼が浮かべていた表情はというと、この先で待っているであろう、仇敵を射抜かんばかりの鋭い眼差しをただ前へと向けていた。

「そんな光秀殿の真意を知った上で、お前は忠義を貫けるか」

あの男は萵苣の為に、決別を選択した。
では、あの男の為に自分が出来ることはなにか。

「俺は……」

忠義に背き、かつての同胞として共に主へと抗うか。それとも彼の望んだ通り、裏切りを赦さぬ兵(つわもの)として立ち塞がるか。
答えは言うまでもなかった。
だが、しかし。胸の内からせりあがる何かが邪魔をして決断を口にする事が出来ない。
それが涙だと知った時、萵苣は愕然とした。
自分は、光秀との決別がこれほどまでに惜しいのか、と。

「……俺は、決して主君を裏切らない」

焼けつく喉から言葉を絞り出し、ようやく萵苣は答えを提示する。
秀吉は、なにも言わなかった。ただ前を見据えたまま、口端で僅かに微笑みを表し、無言のまま萵苣の決断をただ受け入れたのであった。



萵苣が謀反を起こした光秀と遂に再会を果たしたのは、羽柴と明智の軍勢が戦いを繰り広げた山崎ではなく、本能寺であった。
坂本城を目指し落ち延びる最中(さなか)、小栗栖の藪にて落ち武者狩りの襲撃を受けた光秀はあえなく自害――そしてその首は織田信孝の元へと届けられ、信長が命を落とした場所へと仇討(あだうち)の証として持ち込まれたというわけである。
他の明智の軍勢と共に晒し上げられたそれを見上げる萵苣の想いはというと、寂寞の一言であった。

「馬鹿な男だ、お前は。俺に情けをかける余地が残っていたのなら、謀反なんて馬鹿げていると考え直す時間もあっただろう」

彼が最期に遺したそれは憐れみか、それとも優しさだったのだろうか。

「なあ、光秀――」

謀反の直前、お前はどんな未来を望み、理想を描いていたのか。
苦悶に歪む晒し首に向かって問いかけてはみたものの、返答が紡がれる事はなかった。