立葉の回想録

小谷城の戦い

そこは紛れもない、地獄であった。
戸は破られ、飛び交う怒号と鋭い斬撃の反響が遮るものを失くした勢いのまま、立葉たちの元まで真っ直ぐと届く。
遂に総攻撃が始まり、城内へと織田軍が流れ込んできたのだ。

お市様、御仕度を……! 藤掛殿の手引きの元、小谷城を脱出します」

しかし、お市はその腕に幼い娘を抱いたまま、ただ首を横に振るばかりである。

「せめて一目、もう一目だけでも長政様に……」
「無茶を言わないでください」

織田軍の狙いは言わずもがな、浅井長政の首だ。

「いくらお市様が信長様の妹君とはいえ、この戦況で長政様の元へ向かったらどんな仕打ちを受けるか……」
立葉はお市が浅井家に嫁ぐ以前、つまりは織田家に身を置いていた頃から侍女として仕える身の上であるが故、第六天魔王と恐れられる織田信長の性分も多少は心得ているつもりだ。

「何よりお市様たちの無事は長政様にとっての一番の望みなのです。さあ、御仕度を!」

叫ぶように促した、その時だった。

「どこへ逃げるというのだ」

混乱を極める戦場の真っただ中に、その低音は轟いた。
支配者と呼ぶに相応しい威圧をその背に叩きつけられ、声の主を確かめぬうちから立葉の身は竦んでしまう。
背後に佇む男が何者であるのか。問い質す必要も、振り返ってその姿を確かめる必要もない。

「兄上……」

桜の花弁の如く薄桃に色づいたお市の小さな形良い唇が、震えた声音を吐き出した。

「どうしてここに……!」
「そこの女、市を連れて逃げよ」

予想だにしなかった言葉を浴びせられ、立葉はようやく自らの背後を振り返り、威圧の元凶と真正面から対峙する。
甲冑に身を包み不敵に微笑むその男は、武将というよりも地獄からの使者と形容するのが相応しいだろう。
彼は尾張を統べる男、織田信長その人である。

「嫌でございます! 長政様を討つおつもりなら、市も共にその刃で斬り捨てて下さい」

しかし、彼女の懇願が受け入れられることはなかった。
信長が返答を紡ぐよりも早く、立葉は半ば突き飛ばすようにしてお市の身体をどんでん返しの向こう側へ押し込んでしまうと、細く長く続く隠し通路の先、闇の彼方を指さした。

お市様、行きましょう。この先で藤掛殿と落ち合う手筈になっております」

言いながら立葉は髪飾りの椿から花弁を一枚ちぎり取り、掌に乗せたそれに唇を寄せて吐息をふっと吹きかける。
すると、舞い上がった深紅の花弁は微かな輝きを放ちながら蝶の群れへと化け、導を示すように通路内を照らし始めた。

「さあ、参りましょう。生き延びて、長政様の想いに報いるのです」

薄明りの中に浮かんだお市の表情には拭いきれぬ程の絶望が浮かべられていたが、しばらくの間を置いた後、自らの決意を示すようにして眉根がきつく寄せられた。

「長政様がそう望むのなら……」

こうして立葉はお市たちと共に地獄と化した小谷城から脱出し、その身を今度は清州へと寄せたのであった。

賤ヶ岳の戦い

小谷城で味わった以上の地獄など、この世には存在しないはずであった。
だが今、立葉の眼前に広がる惨状は絶望という表現すら生温く、噎せ返るような血の匂いに思わず身を折って嘔吐きそうになる。

「勝家様、これは……」

足元に幾つも転がる柴田の側近と親族の亡骸は、いずれも腹を一刺しにされていた。
鮮血滴る太刀を手にしたまま屍の山の中で立ち尽くしている勝家によって齎された悲劇だという事は、言うまでもないだろう。
そしてその凶暴な切先が、今度はその傍らへ寄り添うお市に向けられた瞬間、立葉は膝から崩れ落ち、血の海へと浸かった。

「やめ……ッ、お市、さま……!」

長政の為に生きると約束したではないか。
しかし、立葉の想いは絶望と恐怖にまみれ、言葉に代えることが出来なかった。
そんな立葉の心境を汲んだのか、お市はこの地獄に相応しくない可憐な微笑みをひとつ零す。

「茶々を、よろしくね」

最期の望みを託したその直後、微笑みの余韻を仄かに残した実に安らかな表情のまま、彼女はその場に頽れた。
腹を刺し貫かれても尚、苦悶を見せなかったのは立葉への心遣いか、それとも地獄からの解放に安堵を浮かべただけなのか――。
今となっては確かめようのない真意であった。

「ここから今すぐに立ち去れ。間もなく、この城は焼け落ちる」

突き放すように命じると、勝家はお市の腹から刀身をゆっくり引き抜き血を払った。

「それとも、我らと共に地獄へ堕ちるか」

鼻先に突きつけられた切先が、死の予感を滴らせながらぎらりと鋭く輝く。
だが、命など――。

「私には、命など……」

当の昔に、喪ったのだ。



息苦しさに悶えながら、ようやく城外へと脱出を果たした、その時である。

「修理が腹の切り、様見申して後学に仕候へ」

天守閣から勝家の低音が雷鳴のように轟く。
敵軍の見守る中、彼は炎上する城の最中(さなか)でその腹を自ら十字に切り裂くと、侍臣の介錯によって実に壮絶な死を遂げた。

「私には、守れないのでしょうか……」

喪った命を蝶の羽に替え、現世に甦りを果たしたのはいつだったか。
羽ばたく度に死の鱗粉を撒き散らす、蝶化身。
立葉は己の絶命と共に生まれた物の怪なのだ。
死から生まれた蝶は、同時に死を喪う。
不死の存在でありながら、何者も死から救い出す事など出来はしない。
燃え盛る北ノ庄城を見上げつつ、立葉は思う。
お市の魂が蘇るのであれば、不死の蝶ではなく、今度は何度でも生まれ変わる事の出来る花の種であれ、と――。

秀吉の側室

櫛どおりの良いなめらかな長い髪を結いながら、立葉は己の頬をつい綻ばせてしまう。
主君を失って早幾年、彼らの忘れ形見である娘の茶々は世にも美しい娘となり、果ては天下をも手に入れた。
信長の死後、天下人の候補として世に躍り出たのは、長らく織田家に仕えていた羽柴秀吉という男である。
人のよさそうな顔立ちと気さくで陽気な言動ゆえ、とても戦上手には見えなかったが、浅井と朝倉の挟撃を掻い潜る兵(つわもの)だと聞き及び、立葉は大層驚いた。
そして忘れもしない、賤ヶ岳での戦い。
紅蓮の地獄を立葉の眼前に突きつけたそもそもの元凶は、秀吉率いる羽柴軍と柴田軍による争いなのだ。
勝家に壮絶な死を与えた男は、恐らく第六天魔王の志を継ぐ非情な戦人(いくさびと)に違いないと思い込んでいたのだが、元々の出自ゆえか、その振る舞いは武将らしかぬものばかりであった。
だが、茶々は言う。
秀吉ほどに恐ろしい人間を見たことがない、と。

「茶々様、あの……」

毛先からゆっくりと櫛を抜きながら、立葉はふと表情を曇らせた。
その美しさを見初められた彼女は、訪れた太平の世を秀吉の隣でどう感じているのか、と。

「あのっ、日々の暮らしに不便など感じてはおりませぬか? 些細な事でも構いません、何かありましたらどうぞ遠慮なくお申し付けくださいね」

長政を失い、お市をも失った悲劇の姫は、今を幸せに生きているのか。
真正面からそう尋ね損ねた立葉は苦し紛れの微笑で己の真意をはぐらかそうと試みたのだが、敏い茶々は脈絡のない申し出の真意を悟ったのであろう、苦笑交じりに呟いた。

「不自由はありません、怖いくらいに……」

畏怖の念を抱くほどに満たされた日々。
彼女は何を恐れているというのだろう。
いつかそれを失う日に思いを巡らせて怯えているのか、それとも与えられた幸福が数々の骸の上に成り立つ現実を嘆いているのか。

「茶々様……」

天下人の隣であれば、もう彼女は何も喪わずに済むと思っていた。
そして周りの死を看取るばかりであった不死の立葉も、今度ばかりは主の最期を穏やかな心持で迎えることが出来るだろうと予感していた――それなのに。


慶長二十年、再び立葉は紅蓮の地獄へと突き落とされる事となる。

大坂の陣

立葉がそこに足を踏み入れた時、茶々は秀頼の亡骸をその華奢な腕の中に抱いて、穏やかな微笑を浮かべていた。
母の膝上にてその身を横たえる秀頼の腹に深々と突き刺さっていたのは、一本の懐刀である。
鞘に繊細な細工が施されたそれは確か、秀吉が生前に茶々へと贈った品だった。

「よく来てくれましたね、立葉」

言いながら、茶々はその懐刀をゆっくりと、秀頼の腹から抜き取っていく。
瞬間、溢れる鮮血は、天守閣を焼く業火と同じく赤々と色づき、逃れようのない死の匂いで狭い籾蔵(もみぐら)の中を染めた。
真田の軍勢が呑み込まれ、あげく炎を放たれた大坂城は既に落城したも同然であった。
そんな中、茶々が秀頼と共に天守閣にて腹を斬ろうとしていると聞き及び、立葉は慌てて燃え盛る城内を走り回ったのだが、その目論見は家臣によって阻まれた為に彼女たちはこの籾蔵へと逃げ込んだらしい。

「茶々様、どうして……」

今度こそ救ってみせる、と。
ないも同然の命を文字通り投げ打って立葉は秀頼たちの生存を望んでいたというのに――。

「さあ、今度は私を秀頼の元へ連れて行って」

茶々は秀頼の腹から抜き去った懐刀を、今度は立葉へと差し出しながら、残酷に命じた。

「嫌です、茶々様……。どうか、私と共に逃げて下さい……!」

蝶化身は、不死である。例えこの身が焼けようと、切り裂かれようと、決して黄泉に還る事は出来ないのだから盾にしてくれても構わない。
泣き叫びながら立葉はそう訴えたが、茶々は静かに首を横に振った後、秀頼の亡骸をその傍らに寝かせて立ち上がり、手にした懐刀をそっと、しかし有無を言わさぬ意志を持って立葉の指に握らせた。

「太閤殿下が望んだ泰平の世――。それを齎す為には、敗者が必要なのです。落城を目前とした今、その役割を担わなければならないのは豊臣の名を継いだ秀頼と私……。分かるでしょう、立葉」

凛とした瞳に真っすぐと見据えられ、立葉はとうとう首を横に振って拒絶を示す事さえ出来なくなっていた。
恐らくここで立葉が逃げ出したとしても、彼女は他の家臣に介錯を――否、自ら喉を掻き切って命を絶つのだろう。
朗らかで、それでいて意志の固いその姿は、彼女の母であるお市とよく似ていた。

「私たちの亡骸は、決して徳川には渡さないで。この城で秀頼と共に、静かに眠らせて欲しいの」
「……っ、はい……」

握り込んだ懐刀ごと震える立葉の指先を、茶々が温かな掌でそっと包み込む。
その体温すらお市と似ているようでどこか懐かしく、愛おしい。
だが、その熱を立葉はこれから、自らの手によって奪い去らなければならないのだ。

「さよなら、立葉。泰平の世が訪れたら……今度こそきっと、あなたは大切な人を穏やかに見送ることが出来るわ」

それが、彼女が遺した最期の言葉であった。



その後、立葉は徳川軍の手により一時的な拘束を受けたものの「蝶化身に処刑は無意味であり、その他拷問も罰にならない」という理由で処刑を免じられる代わり、松代藩への従事を命じられた。
元和八年より藩主を勤めた真田信之は病に伏せる事がなにかと多い体質であったにも関わらず、その後、齢九十三まで生き永らえたという。
長寿の秘訣は、彼の傍らにいつも控えていた侍女による献身の賜物だと人々は噂したが、実際のところはどうであったのか、当人たち以外、知る由もない。