蘭丞琉那の回想録

支配と自由

川のほとりに腰を下ろし、せせらぎの中へと足首を浸す。
癒しの音色と相俟って、肌を通り過ぎていくひんやりとした柔い水圧はいつだって心地が良かった。
戦に加わる事もなければ、男たちの為に夜伽を務めるわけでもない。
ただ、鑑賞される為だけに異国の地から信長の元へと献上された蘭寿の化身である琉那(るな)は、五条川の向こうに広がる世界を知らずにいた。

濃姫様、清州の外ではどのような戦が繰り広げられているのでしょう」

琉那は対岸の景色を見据えたまま、傍らへと寄り添う濃姫にふと尋ねる。

「ここから眺める世界は静かでとても美しいのに、御館様はこれ以上なにを求めているのですか」

第六天魔王と恐れられている清州の城主、織田信長はその不敵な佇まいとは裏腹に雅を愛する男であった。
宝物庫は南蛮美術と茶器であふれ、引き連れる側室や小姓たちもひとり残らず眉目秀麗ときている。
特に正室として迎え入れられた濃姫の美しさは格別で、ぞっとするような色香は琉那の心ですら時折惑わず程だった。

「この世のすべて、かしら」

白く細い指先で川面を弄びながら、濃姫が妖しく囁いた。

「この世の、すべて……」

途方もない話であったが、あながち夢物語でもないのだろうかと琉那は思う。
彼の戦働きを目の当たりにした事など一度もないのだが、美しい世界を我が物とするために残虐非道の刃を振るう血塗れ(ちぬれ)姿が自然と瞼の裏に浮かんだ。
天下統一を果たしたあかつきには、積み上げた骸の頂から手にした絶景を見下ろすのだろう。
人は、それを支配と呼ぶ。だが、不思議と琉那は嫌悪を抱かなかった。
それどころか――。

「この世が御館様の手に堕ちれば、私はこの川を越えられるのですね」

うっとりとした声音でそう零すと、濃姫は琉那の言葉を肯定するように川面(かわも)を弄んでいた指を伸ばして琉那の白い頬を優しく撫で上げた。

「そうね、貴女も私も自由になれるわ」

――宝物(ほうもつ)として城に飾られているだけの美術品ではなくなるもの。
薄紅に彩られた唇から語られる甘い空想は、川辺で夕涼みをする琉那たちの理性をじわりじわりと浸食していく。
信長が世に泰平を齎したところで、果たして人々にその姿を愛でられる為だけに生まれた鑑賞用の自分に自由が与えられるだろうか。
だが、外の世界に焦がれるあまり、そして濃姫に唆されるたび、琉那は根拠のない希望と憧れを際限なく募らせてしまう。

「ああ、早くその時が来ないかしら。私は、この橋を渡った先にある景色に触れてみたい」

はやる想いを堪え切れず、上擦った声で自らの願望を琉那は思わず口走る。
もはや、それは恋慕に限りなく近い衝動であった。