裏社会のモブ×潜入捜査員

人身売買が日夜行われているというそのショーパブは、奇妙な熱気に満ちていた。
輩の巣窟かと思えば、どうやらこの店にはドレスコードというものが設定されているらしい。テーブルに腰を掛けて食事を楽しんでいる面々は皆、仕立ての良い豪奢なドレス、もしくはハイブランドのスーツに身を包み、フォークを口に運ぶ仕草もいやに上品だ。

「金持ちの道楽ってヤツか……」

溜息交じりにそう吐き捨てたのは、山田と共に店内へと潜入を果たした同特別課の捜査員、安田旬である。
彫りの深い混血らしい顔立ちを引き立てる堅苦しい濃紺スーツの胸元には、申し訳程度のドレスアップ要素である丁寧に折りたたまれた深紅のハンカチが差し込まれていた。
対する山田は常と変わらぬ普段通りの飾り気ないジャケット姿で潜り込んでしまったものの、入り口で咎められてなかったということは特に問題はなかったのだろう。
周りの観客に倣って自身もヒレ肉を口元へと運びながら、あまりキョロキョロするなよと安田に小声で釘を刺した。

「シュミの悪い見世物で盛り上がるのは、江戸時代から続く文化だろ? 人間の根本ってのはたかだか数百年じゃ変わらないってことだ」
「……意外だな、お前がそんな達観した考え方を持っているなんて」
「毎日とんでもない犯罪を目の当たりにしてたら、そりゃ達観もするでしょ」

言いながら、山田はソースで汚れてしまった口元を紙ナプキンで拭いつつ、視線のみで周りの様子をそっと窺った。
煌びやかな内装に相応しい着飾った観客たちだけでなく、蝶ネクタイ姿の給仕に至るまで一流の人間を取り揃えているのだろう。人身売買の現場というよりも、高級ホテルのパーティ会場を連想させるような空間がそこには広がっている。
それなりに金を持っていて、尚且つ社交界での作法を一通り身に着けた人間たちをここまで集客出来るという事は――。

「相当デカい組織みたいだな」

山田が呟くと、カクテルグラスを傾けながら安田も小さく頷いてみせた。

「海外マフィアが深く関わっているのかもしれない」
「人身売買だしね。売り払うとすれば大半が海外だろうよ」

と、その時である。
耳に差し込んだ無線イヤフォンから、聞きなれた上司の檄が飛んだ。

「あまり迂闊な会話をするな、もっと気を引き締めろ」

声音の主は、北野雄一。特別課のチーフであり、山田と恋仲の関係でもある隻眼の男だ。

「突入のタイミングは、お前たちに懸かっているんだぞ」
「はいはい、分かってますよ」

今回の作戦は、警視庁警務部との合同任務である。
まずは、特別課から山田と安田が先行部隊として現場に潜入、そして人身売買の決定的な証拠となるオークション行為、またはそれに準ずるやり取りが開催された後、特殊急襲部隊――SATを突入させるというのが今回の大まかな流れとなっていた。
対テロリストや人質事件などで主に活躍する特殊部隊を投入するとは大仰な作戦であったが、事前に齎された情報によると元締めはどうやら武器の密輸や違法薬物の取引にも手を付けている巨大組織らしい。
武器、そして薬とくればどこかの暴力団だろうと最初は考えられていたのだが、よくよく四課に話を聞いてみるとそれも違う。
むしろ極道連中も、自分たちの断りなく、どこの誰がそれほどまでに大規模な商売を展開しているのかと血眼になって情報を探しているそうだ。
今回、SATを動員した理由もそこにある。
警視庁ほどの規模ではないとはいえ、極道組織が独自に持つ情報網もなかなか侮れないものだ。本日、ここで行われている催しを嗅ぎ付けて山田たちのように紛れ込んでいないとも限らない。

「山田、しくじるなよ。潜んでいるかもしれないヤクザの鉄砲玉に先を越されるな」

警視庁の捜査本部にて指揮を執る男、北野から再び釘を刺すような言葉が鼓膜へと冷たく叩きつけられる。

「安田の言う通り、恐らく会場の規模、そして客層から考えて海外マフィアが絡んでいる可能性が非常に高い。そんな連中とヤクザが抗争を始めてみろ、街中が血の海になる」
「……あんまり怖いこと言わないでよ、雄一さん」

潜入捜査員の心を挫くような台詞をどうしてわざわざ吐き捨てるかねと山田は眉を顰めながら、もうひとくち、ヒレ肉を行儀の悪い乱暴な仕草で噛み千切った。 
――と、その時である。客席の照明が突然、落とされた。
それと同時に真正面のステージセットが、軽快な生演奏の旋律に合わせて愉快気に明滅を始める。

「おっと……。お待ちかね、ショータイムの時間みたいだね」

山田は口の端についたソースを親指の腹で拭いながら、にやりと上目にステージの様子を窺った。
煌びやかな装飾の施されたレオタードを身に纏ったダンサーの群れが作り物の笑顔をその顔に張り付け、一糸乱れぬ統率力を見せつけるかの如くしなやかに舞い踊る。
ピアニストの指捌きも実に軽快で小気味よい。素人の山田が耳にしても良い演奏だと思えるほどの腕を持っているにも関わらず、なぜ彼は質の悪い犯罪者に雇われてしまったのだろうと疑念を抱かずにはいられなかった。

「さて、今宵もやって参りました。ヒューマンオークションのお時間です」

そう切り出したのは、銀髪を丁寧に後頭部へと撫でつけた長身の男だった。
その物腰や口調は柔らかく、また端正な顔立ちも相俟ってか一見、紳士的な男に見えはしたが――。

「あの野郎、組織の人間だな……」

ノンフレーム眼鏡の奥に覗く切れ長の瞳を見て、山田は確信する。
彼は、真っ当な生活を送っている人間ではない事を。
高い鼻筋と、男にしてはやけに白く透き通るような肌は、どことなく隣のテーブルに腰を下ろしている安田と雰囲気が似通っている。
もしかするとあの男も混血か、もしくは海外マフィアとの関連性を考えると完全なる異邦人なのかもしれない。

「今宵は、特別課な人間を出品させて頂く予定です」

と、謳うように宣言した男の掌が、実に端麗な仕草で客席を指し示す。

「――は?」

瞬間、後頭部から響いたジャキッという撃鉄を起こす鈍い音。
同時に山田たちのテーブルへと、思わず両目を眇めてしまうほどに眩しいスポットライトが突如向けられた。

「本日の商品はこちら、警視庁特殊犯罪捜査特別課の刑事である山田良太氏になります」

ステージ上の男は、まるでメインディッシュの料理でも紹介するような調子で謳いあげる。
冗談だろう、と鼻で笑い飛ばすべく口を開こうとした山田であったが、抵抗や無駄口は一切許さないと言わんばかりの仕草で後頭部に冷たい銃口をぐいと押し付けられては、そのまま唇を噤むしかない。

「良太……!」

代わりに大声を上げたのは、安田だった。
しかし、彼の背後にもまた、客席の照明が落とされたタイミングでいつの間にか忍び寄っていたらしい黒づくめの男の姿を見つけ、思わず舌を打つ。
今のところ、自分たちは用意されたディナーを口にしたぐらいの行動しか取っていないにも関わらず、なぜ早くも身元が先方へと割れてしまっているのか。

「顔写真、か……」

恐らく無線を通してこちらの現況を見守っているであろう、本部に控えた北野たちへと聞かせるようにぽつりと思い当たった要因を呟く。
政界や大手企業の重役たちも顧客に含まれていると噂されるこのオークションイベントは、そういった著名人たちを相手取るにあたって顧客管理を徹底しているらしく、入場時にまず顔写真入りの招待状をエントランスにて提示しなければならなかった。
山田たちに用意されたその招待状は、主催組織から正式に発効されたものではあったものの、記載の個人情報は公安警察協力の元に製作された偽装データであり、容易に足がつくような代物では決してなかったはずだった。
だが、しかし――顔写真だけはどう偽装する事もかなわない。
観客を装わなければならない手前、山田たちは自分たちの顔写真を使わざるを得なかったのだが、足がつく可能性があるとすれば恐らくそこだ。 
――この人身売買組織は恐らく、特別課の捜査員を知っている。
さて、どうするべきかと山田は口端だけで苦笑を浮かべながら、突きつけられた銃口の冷たさに促されるようにして両手をゆっくりと上げ、ひとまずはステージ上で微笑む男へとホールドアップの姿勢を示してみせたのであった。



「……山田の顔を知っている奴がいたという事か」

捜査員たちが慌ただしく動き始める最中、北野だけはパイプ椅子に深く腰を下ろしたままモニターを真っすぐと見据えていた。
液晶に映し出されているのは、オークション会場横の廃ビル屋上を陣取るSWAT隊員たちの手によって設置されたカメラからの映像である。
そこからは未だ何の動きも見出すことは出来なかったが、会場内部へと潜入した山田と安田に取り付けられた無線マイク越しに届けられる現況は、これ以上なく切迫していた。

「まさか出鼻を挫かれるとはね。どうすんの、北野さん」

苛立ちを隠せないのか、大きく貧乏ゆすりをしながらこちらへと身を乗り出してきたのは秋山である。

「オークション前に正体がバレちまったら、人身売買の方ではもう引っ張れなくなるぞ。連中がこれから山田さんに何をするつもりかは知らねえけどさ」

その強い苛立ちは、山田の身を案じてるからこそのものなのだろう。
憎まれ口を叩きはするものの、本来は責任感の強い男である。
少なくとも特別課の捜査員、特に様々な因縁が渦を巻く北野は彼のそういった本質を誰よりも理解をしているつもりだった。

「……作戦は中止だ。山田たちの潜入を嗅ぎ付けた時点で、連中はオークションの開催を取りやめたはずだからな」

今、強引に捜査を行ったところで人身売買の証拠は掴めないだろうと北野が切り出すと、秋山はこみ上げる怒りを抑えきれないのか、その頬を真っ赤に染め上げつつも北野の下した判断には特に異論を唱えることなく悔し気に唇を噛み、やりきれないといった様子でモニターから視線を逸らしてしまう。

「安田、聞こえるか。無線をまだ取り上げられていないのであれば何か合図をしろ」

北野がそう呼びかけると、カチリ、という硬い物音が一つ返ってきた。
一瞬の間を置いた後、それが奥歯を噛み締める音だと気付く。
声を出せぬ代わりに、安田は奥歯を鳴らすことで肯定と否定を表現しているのだろう。それでどこまで現状が把握出来るかは分からなかったが、いつ無線が取り上げられるかも分からない。今のうちに引き出せる情報は可能な限り引き出しておくべきだろう。
北野は急いた手つきでマイクを手元に引き寄せると、そのまま安田への質問を続けた。

「山田はまだお前の目に見えているか」

カチリ、と一回。

「お前も今、拘束されているのか」

再び、カチリと一回。

「観客の反応はどうだ。山田の身の上を聞いて、逃げ出そうとしている奴はいないか」

カチリカチリ、今度は立て続けに二回。否定の合図である。
どうやら呑気なことに招待客たちは未だ反社会的な催しを楽しみ続けているらしい。それを裏付けるかの如く、イヤフォンからは下卑た歓声と狂乱の野次がノイズ交じりにざわめきの波として鼓膜へと流れ込んでくる。
早々に作戦を暴かれた警察組織をまるで嘲笑うかのような響きを孕んだそれは、捜査本部に控えた刑事たちの神経を酷く逆撫でた。

「……安田、それから山田。よく聞け」

表情こそ常と変わらぬ怜悧さを貫いてはいたものの、静かな憤怒の滲む地を這うような低音で、北野は現場の安田、そして山田へと更に呼びかけ、宣言をした。

「人身売買での摘発は難しいかもしれないが、連中をタダで帰すつもりはない」

どんな小さな罪も見逃すな、難癖をつけて意地でも引っ張ってやる――と、隻眼を鋭く煌めかせた北野の脳裏に、山田の呑気な笑顔と喪ったかつての婚約者の微笑の二つが同時に浮かび、重なり合って溶けていく。
こみ上げる怒りと、焦燥。そしてこの腕に抱いた人間が再びこの世から消えてしまうのではないかという恐怖。様々な感情が綯い交ぜとなり、汚いマーブル模様を描いた。
その色は人体から流れ落ちた血にも似て、不吉な匂いを漂わせ始める。
――これは、予感だろうか。否、そんな予感を的中させてなるものか、と。
北野はギリギリと奥歯を噛み、正面のモニターを睨み上げる。
どうか命を奪われるような展開だけには発展しないでくれと胸中で祈りつつ、北野はただ耳を澄まして未だ返答を寄こさない山田の気配を懸命に探り続けたのであった。



背後の男に促され、山田は銀髪の司会者が待つステージ上へと昇らされた。
途端、思わず眉を顰める。
客席に居た時は気付かなかったが――否、今しがた漂い始めたのだろうか、胸やけを誘うような甘い香の匂いが鼻腔をふわりと擽ったのだ。
なにかを燻したような香ばしいその香りの正体は恐らく、大麻である。それも、相当量の。
こういった趣味の悪い裏組織の催し物に、違法薬物は付き物だ。
高揚感を味わうために使用される事がほとんどだが、その場にいる人間から理性を取り上げ、正常な判断を下せぬよう主催者側がわざと室内に大麻の香りを充満させる手口を取ることもある。
ステージ上から改めて客席を見渡してみると、蝶ネクタイ姿の給仕たちが、テーブルのひとつひとつに何やら香炉らしき小さな器を配布している姿を捉えることが出来た。
未だ客席に取り残されたままでいる安田も不穏な香りに気が付いたらしく、形良いその眉を不愉快そうに顰め、充満し始めた甘い香りに耐えるかの如く唇をきつく噛み締めている。

「ようこそおいで下さいました、山田さん」

漂う大麻の香りに負けず劣らずの甘い声音でそう囁きかけてきたのは、例の銀髪の男であった。

「本日はオークションの御見学を希望と伺っております」
「……自分が商品になるつもりはなかったけどな」

この期に及んで、未だ行儀のよい態度と物腰を崩さぬ相手に強い苛立ちを覚えた山田はすかさず吐き捨てたが、眼前の微笑は一向に美しく保たれたままだ。

「ご安心ください、商品を傷つけるような真似は致しません」

価値が下がってしまってはこちらも商売にならないと男は嘯くと、その懐から一本の注射器を取り出した。

「……筋弛緩剤です。念のため、投与させてください」

冗談ではない。大麻の香りが充満するこの室内で、筋弛緩剤まで投与などされてしまったらどうなるか。想像を巡らせただけで背筋が寒くなる。
しかし、未だ自らの背後には銃を構えた黒服が控えていたうえ、安田も同じく拘束されたままである。それに、テーブル席でこちらの様子を期待の眼差しで窺っている観客たちもまた、やっかいな存在だった。違法行為に娯楽目的で加担している連中とはいえ、彼らは一般市民なのだ。それに、山田と安田のたった二人きりでどうにか出来る人数ではない。

「さあ、腕を出して」

まるでガラス細工でも扱うような恭しさで、男が山田の手を取り、ジャケットの袖口をそっと捲り上げる。
触れた掌は、氷のように冷たかった。

「……ッ」

次の瞬間、なんの躊躇いもなく針先が静脈目掛けて沈む。
その手際の良さから察するに、医療の心得が多少ある身の上なのかもしれない。となると、大麻の管理を行っているのもこの男なのだろうか……。
と、分析を巡らせていた山田であったが、ほどなくしてその膝はガクリと折れ、まるで全身の肉がどろりと溶けてしまったかのような奇妙な感覚にとらわれる。
そんな中、左胸の鼓動だけはどうしてだか、その存在を誇示するかの如くどくりどくりと力強く脈を打っている。
それと同時に沸き上がる奇妙な高揚感は、大麻によるものだろうか。

「ッ、くそ……」

そして何より耐え難かったのは、未だ鳴り響いている〝音楽〟だ。
軽快なピアノの連弾が、陽気なサクソフォンの旋律が、まるで体の中へと直接流れ込んでくるような感覚に襲われる。
音の一粒一粒が、クリアに響き、肉体に溶けていく。
認めたくはなかったが、それは素面では決して味わうことのない快楽だ。異様に研ぎ澄まされた聴覚が旋律を受け入れる度、脳が悦んで震えるのが分かる。
力の入らない肉体なら尚更のこと、無抵抗のまま与えられ続けるそれはまるで優しい愛撫のようだ。
絶えず演奏が続くライブコンサートやクラブなどで薬物が流行する原因を、山田はこのとき身をもって知ることとなってしまった。

「気持ち良いでしょう? アルコールを浴びるように飲んでも味わえないこの素敵な感覚を法で禁じるなんて、人間とは愚かな生き物です」

男は大麻の香りに負けず劣らずの甘ったるい声音でそう囁きながら、脱力した山田の身体を抱え上げ、どこからか運び込まれてきた重厚なダイニングチェアへと座らせる。
そして続けざま、後ろ手に嵌められる冷たい手錠。

「殺しはしません、安心して下さい。我々としても今回は、銃刀法違反と大麻取締法以外での摘発は避けたいと思っているんです」

耳朶へと吹き込まれるその囁きすら、肉体に染み込んだ大麻の成分は快楽へと変換していく。
男が言葉を紡ぐたび、つま先がピクリと跳ね上がる様が情けなかった。

「ただ、ショーを台無しにした責任は取ってもらわないと……ね」

瞬間、カッターシャツを引き裂かれる。
薄給刑事の一張羅を破るとは罰当たりな奴だと山田が男の顔を睨み上げると、彼はおどけたように軽く肩を竦めながらシャツを切り裂いた折り畳みナイフをその懐へとしまい込み、芝居がかった仕草で長い両腕を高く掲げて観客席を振り返った。

「それでは皆様、本日限りの特別課オークション。お楽しみください!」

高らかな宣言と共に、煌々とした照明が突如落ち、音楽が止む。
一瞬の暗転の後、まるで深海を思わせるようなコバルトブルーのスポットライトがステージ中央にて拘束される山田の姿をぼんやりと寂しげに照らした。
突如、無音の中へと放り出された山田は言い知れぬ不安を覚え、どうにか現状を把握しようといま唯一自分で自由に動かすことのできる視線を巡らせてみたものの、こちらへと向けられた観客達の好奇の目以外は何一つ見当たらない。
眼前にいたはずの男はどこへ行ってしまったのだろう。
その行方を問いただそうと唇を開いたその時、背後から伸びてきた無数の腕が、山田の首を、腕を、腰を、太腿を、まるで蛇のように這いまわり始めた。

「……ッ」

大麻が見せた幻覚か何かだろうかと最初は疑っていたものの、その腕が慣れた手つきで山田のベルトを抜き取る仕草を眺めるうち、いやこれは何者かの意志を持った肉体であると確信する。

「やめろってば……!」

掠れた声で抵抗を示したその時、眼前に再び例の男が現れた。

「怖がることはありません。何もかもを忘れて、快楽に身を委ねて下さい」

言いながら男は自らの首元を飾っていたネクタイのノットに指をかけ、するりとそれを解いていく。
何をするつもりだ、と尋ねようとしたその時、不意打ちで耳朶を舐られ、山田は吐き出しかけた問いかけごと息を呑み、その身を竦ませる。
くすりと笑う男の声は熱く濡れ、その下心を隠そうともしない。

「研ぎ澄まされた五感で享受する快感は、一度味わったら二度と忘れられなくなるほどに絶品です」

言いながら男は解いたネクタイで山田の視界を覆い隠すと、後頭部できつく固結びをしてしまった。

「……ッ」

視覚を閉ざすと、聴覚が鋭敏になるという話はもちろん耳にしたことがある。
だが、それにしても――。

「……っ、んだよ、これ……!」

薬物の魔力を借りてより研ぎ澄まされた聴覚は、微かな衣擦れすら大きな波紋となって山田の身体に染み込んでいく。
先ほどまで煌々と焚かれていた照明をわざと暗く絞ったのは、薄いネクタイ越しに光を通さない為だったのか。
しかし、そんな彼らの思惑に気づいたところで現状が覆るわけでもない。
素肌を這い回る手は徐々にその大胆さを増して、胸の突起や鼠径部を擽るような手つきで弄び始める。
そして何よりもやっかいだったのは、耳朶に吹き込まれ続けている例の甘い低音だ。

「どうですか、大勢の目に晒されながら受ける屈辱は」

遂に下着の中へと傍若無人な指先を差し入れたのは、背後に控えた見知らぬ無数の手か、それとも山田の右耳を吐息で嬲り続けている彼か。

「貴方のお友達にも、しっかり見ていてもらいましょう」

辱めの割には随分と優しいその指先はやがて、山田自身の根元を柔く包み、まるで感触を確かめるように何度も握りこんでは撫でさする。

「……っ、あ……!」

上擦った声を思わず漏らした途端、波のようなざわめきが押し寄せ、山田の知覚を攫っていく。それが客席からあげられた歓声である事を数拍置いた後で気付き、慌てて唇を噛み締めたものの震える嬌声は次から次へと喉の奥からせり上がってきて止められない。

「う、ァ……あぁ……っ」

媚びたような呻きが零れるたび、再び押し寄せる波浪の響き。それすらもはや心地よいのだと肌は歓喜に震えていたが、そんな自らのはしたなさを頑なに認めたくなかった山田は押し寄せる音の波から逃れようと首を振った。
だが、必死に抗えば抗うほど、快楽に屈しつつある肌は大きく震え、甘くどろりと溶けていく。

「……ンンっ、ん!」

と、その時である。
散々這い回っていた掌や指先とは全く別の、ひどく人工的な感触を持った何かが、奇妙な滑りと共に山田の臀部へと宛がわれ、あろうことかそのまま直腸内へと押し入ってきたのである。

「あ、ッ……、は……」

山田は思わずその身を強張らせたが、異物を受け入れている最中に力むのは悪手であると熟知している身体は反射的に腹の力を抜き、それをすんなりと受け入れてしまう。

「……おや」

そこに目ざとく気付いた男が、耳元で感嘆の溜息を零した。

「弛緩剤を使用しているとはいえ、これは妙な反応ですね」

異物を受け入れた下腹をなぞりながら、男は嗤う。

「いけない刑事さんですね」

一体、どこで男の味を覚えたのだと尋ねられた瞬間、山田は想い人の存在をようやくその脳裏に思い出した。

「あ、あ……」

未だ左耳に嵌めたままの無線イヤフォンには、マイク機能も搭載されている。すなわち、こちらの状況は本部に控えた捜査員たちの耳にも届いているという事だ。

「……山田、しっかりしろ」

ふいに届いた耳馴染みの良い低音は、果たして幻聴か、それとも現実か。

「ああァ、っ……アァ……!」
「山田、落ち着け」
「嫌だ、やめ……っ」

抗えぬ快楽に塗れながら身悶える今の山田にとって、想い人である北野の声は、もはや苦痛を伴う愛撫にしかならなかった。

「っ、はぁ……ッ、あ、あ……」

埋め込まれた異物が、まるで山田の現状を嘲笑うかのように震えだす。恐らくそれは、電動式のアダルトグッズなのだろう。
無機質な振動を繰り返すだけの単なる玩具だが、体内を直接震わせる奇妙な感覚は力の抜けきった山田をどこまでも翻弄し、追い詰めていく。
とうとう自らの意志で塞ぐことが出来なくなってしまった唇の端からはだらしなく唾液が零れ、顎の先から滴り落ちるほどであった。

「おい、山田!」

――やめてくれ、俺に語り掛けるのは。今すぐその名を呼び返し、縋りつきたくなる。
悦楽に心身を蹂躙されつつも、頭の片隅に一欠けら残された理性が北野の呼びかけを拒み、どうにかその必死な声音を遠ざけようと身悶える。

「返事をしろ、山田。頼むから、応えてくれ……!」

叫ぶ声音は次第に悲痛な響きを帯びて、疼く左耳を鋭く劈いた。

「とても善い表情ですね。このまま本当に貴方を出品してしまおうか……」

そして右耳には、もはや毒と化した淫靡な囁き。

「あああ……ッ」

内側から突き上げられ、翻弄され、堕ちていく。
こみ上げる絶頂にとうとう根を上げた山田が拘束された椅子の上で大きく伸びあがったその瞬間、何者かの爪先が尿道を深く抉った。

「……っ」

瞬間、何かが弾けるような感覚に襲われる。

「ん、っ……、はァ、ン……は……」

下肢に広がる生暖かさは何なのか。
精液にしては随分と水っぽいそれは――。

「あ……」

まさか、悦楽に耐え切れず失禁してしまったというのだろうか。
しかしそれを羞恥と理解する間も与えられないまま山田は凄まじい脱力感に苛まれ、浅い呼吸を繰り返しながらガクリとその首を折って項垂れる。
未だ物音の数々は異常なほどの鮮明さを以って体中に響き渡るのに、どうしてだろう、まるで床が抜けてしまったかのような浮遊感を覚えると同時、急激に意識が遠のいていく。

「くそっ、山田……!」

そこからの記憶はない。
脳内に反響し続ける北野の悲痛な呼びかけさえ、霞の向こうへと消えていった。

(以下略)
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