稲荷ゆず、ゆらの回想録

中村郷の藤吉郎

「ゆず、早くいらっしゃい! チンタラやってたら見つかるわよっ」
「待ってよ、ゆら。道がぬかるんでて歩きづらいよお!」

大雨の降りしきる中、ぬかるんだ畑を横切る小さな影が二つ。
もはや人の手入れすら満足に行き届かない寂れた稲荷神社をねぐらに暮らすその二人は、幼き妖狐の姉妹であった。

「ほら、そこに大根の葉が見えるでしょ。片っ端から引っこ抜くのよ」

そう語気を荒げたのは、姉のゆら。

「うん、わかった! うんしょ、よいしょ……」

命じられるまま、しっとりと濡れた泥の中から大根を引き抜こうと四苦八苦しているのが、妹のゆずである。
参拝者などほとんど姿を見せない神社で暮らすこの姉妹は、たびたび人里の畑から作物を拝借しては飢えをしのぐという侘しい生活を送り続けていた。
田畑を荒らす野狐の二人は里に住む者たちから当然のように蔑まれていた故、食料調達は人目のない夜半、もしくは豪雨の日に行うしかない。

「そこで何をしている?」

だが、この日は運悪く畑の様子を見に来ていたらしい青年に盗みの現場を見られてしまった。
唐突に声を掛けられ、ゆらは大根の引き抜きに苦労しているゆずの姿を自らの背後へ隠すように男の前へ立ち塞がると、大きな眼でキッと威嚇するような視線を向けた。

「悪いけど、大根は頂いていくからね。アンタたち人間が供物を持ってこないのが悪いのよ!」

しかし、男は動じない。それどころか、二人の行いを咎めることなく清々しいまでの笑みをその顔に浮かべてみせると、

「手伝うよ」

あろうことか、ゆずに代わって次々と大根を引き抜き始めたのだ。

「すごいすごい!」

次々と泥の中から抜き出される大根を男の手から受け取りつつ、ゆずがはしゃいだ声をあげる。

「まさか、アンタも野菜泥棒?」

畑の主であれば、ゆらたちの行いを見逃してくれるはずがない。
だが、この男も畑を荒らしに来た同族であれば話は別だ。二人に手を貸す代わり、こちらの盗みも他言するなという事だろうか。
しかし、またしてもゆらの予想は裏切られる事となる。
男の名は、木下藤吉郎。のちに彼が天下人となり歴史にその名を刻む未来を、ゆらたちは――否、藤吉郎当人とて、知る由もなかった。

ねねとの祝言

「秀吉!」
「おねね!」

二人が駆け寄ると、婚儀にしては随分と質素な衣装に身を包んだ男女がこちらを振り返り、揃って穏やかな微笑を浮かべた。

「ちょっと、なによここ。折角の祝言だっていうのに……」

質素であったのは、二人が纏った衣装だけの話ではなかった。
秀吉たちの元を訪れる前、婚儀の会場を少しばかり覗いてみたのだが、藁と薄縁(うすべり)が敷かれているのみで華美な装飾はどこにも見当たらず、これではねねがあまりにも不憫だとゆらは憤りを覚えていた。

「秀吉、ねねが可哀想じゃないの!」

まったく甲斐性のない男だとゆらが苦言を呈すと、飛びついてきたゆずをあやしつつ秀吉はその顔に苦笑を浮かべた。

「……面目ない」
「いいのよ、ゆら。これは私が望んだことなんだから」


言い訳さえ口にすることのない男に代わり、機嫌を損ねているゆらの前髪を、ねねが宥めるようにしてそっと梳き下ろす。

「私はこの人と一緒になれるだけで幸せよ。綺麗な着物も、豪華なお城も必要ないわ」
「……ふうん。秀吉のこと、よっぽど好きなのね」

勿論、彼が心優しい人間であるということはゆらたちも承知している。
畑を荒らす不届き者を追い払うどころかありったけの作物を与え、その後も油揚げや米などを自らの足で稲荷神社まで定期的に届けに来るお人よしなのだ。
そんな秀吉の甲斐甲斐しさに惹かれる者も多い事だろう。しかし、現時点では信長の草履取りでしかない秀吉と、浅野家養女のねねでは身分が釣り合わない。
故に婚儀がここまで質素に執り行われているのであろうが、ねねに不満はないのかとゆらが訝しむのも当然の事だった。

「わたしも秀吉だいすき!」

ねねの惚気に同調するかの如く、ゆずが無邪気にそう宣言する。
それを隣で聞いていたねねもまた、心の底から幸福そうな笑みを浮かべて大きく頷いた。
「そうね、みんな優しいこの人のことが大好きなのよ。ゆらもそうでしょう?」
秀吉当人の前で図星を突かれ、ゆらの頬が思わず赤らんでしまう。
気恥ずかしさを隠すように仏頂面を浮かべてみせたが、それはただの悪あがきにしかならなかった。

「ふん、優しいだけじゃ武士としてやっていけないわよ。必ず功をあげてねねに贅沢をさせてあげなさい!」
「わかった、約束する」

ほどなくして、交わした約束は果たされる事となる。
第六天魔王と恐れられた信長ですら取り逃してしまった天下を、彼は泥だらけの大根をゆらたちと共に引き抜いていたその手でつかみ取ったのであった。

醍醐の花見

「わあ、綺麗!」

咲き乱れる桜を見上げ、ゆずは思わず感嘆の息を零す。
前田利家に伴われ、ゆずとゆらは京の醍醐寺を訪れていた。
なんでもこの日の為に秀吉は、七百本もの桜を植樹したと聞く。
空を覆い隠さんばかりの花の下(もと)、頬張る団子は絶品だ。

「招待客は女ばかりなのね」

団子にうつつを抜かすゆずの隣で、ゆらが茶を啜りながら呆れたようにそう零す。

「ホントだ、利家様しか男の人がいない! どうしてだろ?」
「……今日は女房女中衆の為の会なんだ」

苦し紛れな利家の返答に、ゆらは納得がいかない様子であるが、他人の言葉をすべて鵜呑みにするゆずはというと、それ以上の疑問は持たなかったらしい。

「みんな楽しそうだね、秀吉も元気そうでよかった」

無邪気にゆずはそう漏らしたが、利家はその表情に微かな悲哀を滲ませ、言葉を一瞬詰まらせる。
ここのところ秀吉の容態は安定を保っているのだが、長くは持たぬという見立ては変わらず、覆ることがない。

「ねえ、利家様。秀吉やおねねとお話をしに行ってもいい?」
「そうだな、行っておいで」

二人が秀吉と顔を合わせる最後の機会かもしれないと、利家はゆずの提案を受け入れ、二人をその腕に抱えて秀吉の元へと歩き出した。



「秀吉、お団子おいしかったよ!」

ゆずに笑顔を向けられ、秀吉は皴の刻まれたその顔を微かではあるが綻ばせた。

「ちょっと、秀吉。しばらく見ないうちに随分と老け込んじゃって……。だらしがないわよ! そんな調子じゃ、ねねが不安がるじゃない」

ゆらの口から飛ばされた檄も、どこか楽し気に受け止めている様子である。
だが、弱り切った男が幸福の表情を浮かべる度に胸を締め付けられ、居た堪れないと利家は思わず視線を伏せた。

「来世はお前たちのような物の怪に生まれ変わるとしよう。そうだな――やはり猿がよいか」

遺言のような秀吉の言葉に、利家の目頭が熱くなる。

「秀吉は猿の妖怪になりたいの?」

猿と化した秀吉の姿を想像したのだろう、ゆずは腹を抱えてケタケタと楽し気に笑い転げていたが、

「……馬鹿、縁起でもないこと言うんじゃないわよ」
「ゆら、どうしたの?」

他人に弱みを見せる事をなによりも嫌うゆらの双眸に、今にも溢れ出しそうなほどの涙が浮かべられているのを見つけたゆずはよほど驚いたのか、手にした団子をその場に放り出してしまった。

「なんで泣くの? お花見、楽しくない? それともお腹痛いの?」
「違うわよっ! ぜんぶぜんぶ、秀吉のせいなんだから……!」

八つ当たりのような叫びは舞い散る桜の花弁と共に、京の都を吹き抜けていく。
そして桃色の散華が眩しい新緑へと姿を変えたとある夏の日。
羽柴秀吉は、その生涯に幕を閉じたのであった。

孤独に還る

豊臣が、滅亡した。
北政所の元へ身を寄せていたゆずとゆらはその後、高台院屋敷を抜け出し、生まれ故郷である尾張中村へと帰還。
いつかと同じように寂れた稲荷神社にて身を寄せ合い、人目を盗んでは畑の野菜を拝借するという生活を送っていた。
だが、当時と決定的に違う事がある。
秀吉らと共に暮らす事で様々な人情に触れたゆずが、人肌を欲するようになってしまったのだ。

「……ねえ、ゆら。おねねの所に帰ろうよ」

小雨の降る中、境内の片隅で膝を抱えながらゆずが心細げに呟いた。
だが、ゆらは決して首を縦に振ろうとはしない。
勿論、ねねの元を離れることを寂しく思っていたし、京へとたった一人残された彼女の事が気がかりではあったものの――。
それ以上にゆらは、人の死に目に逢う事が怖くなっていたのだ。
自分たちのような妖狐と違い、人間の命は短く儚い。
その上、戦が長く続いた為に若くして戦場にて命を落とす者も多かった。
訃報が齎されるたび、胸に抱えた思い出ごと抉り出されるような痛みを覚え、やがてゆらはその苦痛に耐えられなくなってしまったのだ。

「私たちはもう、人間には関わらない。関わっちゃいけないの」

涙ぐんでいる事を悟らせまいと、冷たく突き放すような口調で言い放つ。
それはゆずに語り掛けた言葉というよりも、自身に言い聞かせたと形容するベきだったのかもしれない。
今日と同じような雨の日に触れた、秀吉の優しさが懐かしかった。
そして贅沢にも願ってしまうのだ、もう一度あのぬくもりに触れたいと。
しかし、今は亡き人間の体温を求めるなどあまりにも不毛である。
恋しいと嘆けば嘆くほど、寂しさは募ってやがては心を引き裂くのだ。
故に、もう二度と求めるべきではない。

「人間なんて嫌いよ。弱くて無責任で、すぐに居なくなっちゃうんだもの」

強がりを吐き出したゆらはそのまま抱えた膝に顔を埋めると、孤独から逃れるように目を閉じ、一刻も早く夢の中へ溺れてしまえと半ば強引に意識を眠りの中へと沈めたのであった。



翌日の朝、雨はすっかりと止んでいた。
鬱蒼と生い茂る木々の隙間から差し込む眩しい陽の光に導かれ、意識が覚醒する。

「ゆら、これ見て!」

目覚めて間もなく、隣でゆずが大声をあげた。
屋敷を抜け出してから長らく耳にしていなかった楽しげにはしゃいだその声音に、一体なにごとかと眉根を顰めつつゆらは膝を抱えたままチラリとそちらを一瞥する。
途端、視界に飛び込んできたものに思わず目を見張ってしまった。

「起きたらね、足元に置いてあったの!」

言いながらゆずがその腕に抱えていたもの――。
それは、泥だらけの大根だった。

「きっと秀吉が届けてくれたんだよ。ほら、こんなにいっぱい!」

そんなはずはない。彼は、数年前に死んでしまったのだから。
だが、咄嗟に発しようとした否定の言葉は喉の奥に引っかかったまま、ゆらの口から発せられることなく涙と共に胸の奥へと呑み込まれてしまった。

「……ッ、秀吉のばか……!」

かろうじて零れたのは、精一杯の悪態ただ一つ。
こみ上げる感情は今にも溢れかえりそうなのに、ゆらはそれ以上の言葉を紡ぐことが出来なくなってしまう。
孤独に還った自分たちを哀れんだ亡霊の仕業か、それとも醍醐の花見にて宣言した通り転生を果たした猿の仕業か。

「ゆら、泣かないで」

大根を抱えたまま伸ばした掌で、ゆずが泣き崩れるゆらの髪を柔らかく撫で上げる。

「寂しがらなくても大丈夫だよ。秀吉も、利家様も、光成も……みんなみんな死んじゃったけど、楽しかったこと覚えてるもん」

忘れない限り、彼らは自分たちの傍に居続けるのだとゆずは笑い、腕に抱えた大根のうち一本をゆらへと手渡した。

「早く洗って食べよう!」
「……うん」

頬を伝う涙も拭わぬまま、ゆらはそれを受け取りゆっくりと立ち上がる。
あれから何十年の時が過ぎただろう。
しかし、秀吉と初めて出会った雨の日のこと、そして人目を盗みながら共に収穫した野菜の味を、ゆらは一度たりとも忘れたことはない。
覚えている限り、彼らは本当に寄り添い続けてくれるだろうか。
木々の隙間から覗く晴天を見上げつつ、ゆらは未だ涙の滲む大きな瞳を眇め、ふと思う。
――否、事の真偽などこの際、どちらでも良かった。
思い出が心の拠り所で在り続ける限り、きっと秀吉は黄泉から自分たちを慰め続けてくれるのだろう。