ヤンデレ男子×同級生女子(心中死ネタ)

両手を唇の前ですり合わせながら、私は頭上に広がる重苦しい曇天を見上げ、少々肩を落とした。
もうすぐ雪が降るという予報を目にしていたにも関わらず、傘どころか手袋を嵌める時間さえ惜しんで家を飛び出してきてしまった事を今更ながらに後悔しつつも、私はただその場にじっと立ち尽くし、いつか現れるであろう〝彼〟の姿を待ちわびていた。
連絡があったのは今から一時間ほどまえのこと。
――大事な話をしたい、と。
密かに想いを寄せ続けていた優太君にそう用件を告げられた瞬間、予感めいたものを感じた私は二つ返事でその呼び出しに応じ、先述の通り、もうすぐ降り始めるであろう雪の準備すら整えないまま、指定された待ち合わせ場所へと駆け出したのだ。
住宅街の最中にありながら、その鳥居を潜る人間は滅多に現れない小さな神社の境内にて、私は寒さに震えながらも高まる期待を堪え切れずにいる。
もしも、この予感が自惚れではないのだとしたら――きっと彼は、私にとって一番嬉しい言葉を掛けてくれるつもりなのだろう。
これが女の勘というやつなのか、それとも端から彼は自らの気持ちを隠すつもりがなかったのか。どちらにせよ、こんなに喜ばしい事はない。
ずっとずっと、優太君のことが好きだった。
あの穏やかな笑顔が、のんびりとした柔らかい声音が、心地よい優しさが、すべてが大好きだった。
いつか自らの気持ちを打ち明けなければと思いつつもそれを実行へと移せずにいたのは恐らく、彼も私に対してどうやら好意を持っていてくれてるらしいという根拠のない推測が齎した慢心だ。
待っていれば必ずその時が訪れる、と。どこかで夢見ていたのかもしれない。
そして、その夢は恐らく叶うのだ。今日、この寒空の下で。
時刻は午後四時を過ぎる頃。厚い雲に覆われた空はその向こうにある太陽が大きく傾き始めた為か、ますます陰を増したようだった。
時折、頬を掠める風はその鋭さを増したようで、それはもはや冷気というよりも痛みを伴う刺激となって私の身体を大きく震わせた。
境内の周りを覆うように植えられた木々が奏でる騒めきも寒々しさに色を添え、こちらの胸の高鳴りとは裏腹に世界を凍えさせている。
やはり防寒対策は怠るべきではなかったと改めて嘆息しながら首を竦めた、その時だった。

「怜ちゃん!」

真っ白な吐息を零しながら、境内の階段を駆け上って来るひとつの影。

「ごめんね、寒いなか待たせちゃったね」

家から走ってきたのだろうか。
この寒空にも関わらず、彼――待ち人であった優太君の頬はほんのりと赤く上気していた。
弾む呼吸は私と同じく、寒々しい色を示しているというのに、浮かべられた笑顔があまりにも明るくて、そして優しくて、こちらの頬も無意識のうちに綻んでしまう。

「ううん、大丈夫。優太君に会えて嬉しいよ」

そう答えれば、目の前の笑顔が殊更に大きく弾けた。
嬉しそうに細められた双眸が疑いようのない喜びの感情できらきらと輝くさまは、見ているこちらの気持ちすら心地よく高揚させる。
彼はきっと、そこに居るだけで他人を幸せに出来る贅沢な力を持っているのだ。
だからこそ私は心を惹かれ、ここまで導かれてきた。

「……話って、なに?」

求めていた言葉を一刻も早く聞きたくて、何気ない風を装い思わず本題を急かしてしまう
すると優太君は今度その頬を、寒さの為ではなく気恥ずかしさで朱に染めた後、照れ隠しの仕草だろうか、後ろ髪を落ち着きなく掻きながら、視線を宙へと彷徨わせた。

「怜ちゃんに言いたかったことがあるんだ」

どくりと、ひと際大きく鼓動が脈打つのが分かる。

「僕ね、ずっと前から好きだったんだ」

瞬間、とうとう降り始めた雪の結晶たちと共に強烈な寒風が吹きすさんだが、その冷たさに気付けぬほど、私は歓喜の波に飲み込まれていた。

「だから怜ちゃんには、僕の傍に居て欲しい」

――出来る事なら、永遠に。
告白の後に付け足された彼の望みは、まさしく私の願いでもあったのだ。

「優太君の、傍に……。ずっと?」
「そう、ずっとだよ。ずっと、僕についてきてくれる?」

途端、喜びのあまり涙が滲む。
待ち望んだ愛の告白だけではない。二人の永遠まで彼が誓おうとしてくれている事実が、なにより嬉しくて堪らなかった。
感激のあまり、はやる気持ちとは裏腹に告白へと即答する事が出来ないでいる私はしばし言葉を詰まらせたまま、自らの表情を隠すように深く俯いてただ涙を堪えていた。

「……怜ちゃん?」

その仕草に不安を覚えたのだろう。優太君はその優しい笑顔を今度は不安げな表情で曇らせながら、おろおろとした様子でこちらの顔を覗き込んでくる。

「ごめん、びっくりさせちゃったかな。急に呼び出して、好きだからずっと一緒に居てくれだなんて言っちゃって……」

彼の語尾が、自信を失ったように掠れていく。

「迷惑、だったかな。僕じゃ怜ちゃんの傍にはいられないかな」
「ううん、違うの」

私は慌てて顔を上げ、遂にその目尻から歓喜の涙を一筋零しながら、精一杯の泣き笑いを浮かべて応えた。

「私も、優太君と同じ気持ちだったよ」

優太君が私を好きでいてくれたように、私も優太君の事が大好きだった。
滲む声音でそう零せば、眼前の純真無垢な笑顔はますますその輝きを増した。
降りだした雪は徐々にその勢いを増し、喧噪の届かない境内を、否、街全体をたちまち白く染め上げていく。
そんな中、傘も差さずに静寂のなか立ち尽くす二人であったが、不思議と寒さが薄らいでいくような錯覚さえ覚え、凍えた指先の感覚など今では少しも気にはならなかった。

「ずっと一緒にいようね、優太君」
「怜ちゃん……!」

彼の想いに応じた直後、しばし心地よい沈黙が二人の間を静かに流れる。
ようやく通じ合えた互いの気持ちを噛み締めるようにただ見つめ合い、喜びの余韻に浸り続ける至福の時。
そして明日から始まるであろう、新しい二人の関係と、繰り広げられるであろう甘い日常への妄想に浸っていたその最中、ふと伸ばされた冷たい指先が、私の顎を優しく掬った。
瞬間、互いの物理的距離が大きく縮まり、煌めく彼の笑顔が視界いっぱいに広がる。
彼の吐き出す真っ白な息が唇を掠めたその時、またしても私は予感めいたものを覚え、鼓動をどくりと高鳴らせていた。
これはもしかすると、キスの合図だろうか。
私はしばし逡巡した後、ゆっくりと瞳を閉じ、いずれ訪れるだろう柔らかな感触をじっと待つ。

「……っ……?」

が、しかし。訪れたのは、忘れかけていた風の冷たさよりも更に鋭い感覚――まるで皮膚を切り裂かれたような、ひりひりとした痛みだった。
何事だろうと睫毛を震わせ、目を開けようとしたその矢先、今度はふわりとした柔らかな感触が冷え切った肌へと押し付けられる。
それが何なのかはすぐに分かった。不可解な痛みを慰めるように触れた温かなその感覚は、優太君の唇だ。
感激の余韻に浸る暇もなく、すぐに離れてしまった柔らかさへと追いすがるように私は今度こそ瞳をゆっくりと開いたのだが、

「……え?」

私の顎を掬い上げたまま、幸福そうな笑みを浮かべる彼の唇は、まるで紅をひいたかの如く真っ赤に彩られていた。
どくり、と。鼓動が高鳴る。だが、それはようやく成就した恋心が齎したときめきとは、まるで別種のものだった。
優しく弧を描いた彼の唇に滴る鮮血。あまりに不釣り合いなそのコントラストは、例えようのない不安を植え付ける。
どうしたんだろう。寒くて、唇が切れてしまったのか。
いや、そうじゃない――。
私は恐る恐る、自分の頬、今しがた柔らかな口付けを贈られたそこに指先を伸ばし、痛みの筋をそっとなぞる。

「……!」

指の腹が、彼の唇と同じく深紅に染まっていた。
滴る赤は、私の頬から流れていたものだった。
なぜ、どうして。
汚れた自らの指先を愕然と見下ろしながら、頬に突如走った痛みの意味を、血が流れた理由を、必死になって考え込む。
かまいたちでも吹いたのか、はたまた寒さによるあかぎれか。

「怜ちゃん」

鮮血の紅を唇へと引いたまま、優太君が優しく私の名前を呼んだ。
どくり、どくり。
奇妙な怖気を伴った動悸が、脈打つごとに次々と疑念を生み出していくような、嫌な感覚へと陥っていく。
優太君の無邪気で優しい笑顔から顔を逸らすように、今度は足元へと視線を落とした、その時だった。
彼の左手に握り込まれていた小さな刃、カッターナイフの存在に気が付いてしまう。
その切っ先から滴る鮮血は恐らく、私の頬から流れたものに違いない。
まさか、どうして。いや、そんなはずがない。
迫りくる確信から逃れるように、ゆっくりと一歩ずつ後ずさる。

「怖がらないで、怜ちゃん」

まるでこちらの恐怖心を見透かしたかの如く、優太君は殊更に優しく微笑みながら、カッターの刃に付着した血をコートの袖口で丁寧に拭い取った。

「痛いのも苦しいのも、あと少しだから」
「え……?」
「ちょっとだけ我慢してね。最期の思い出作りが終わるまで」

言いながら彼は今度、その足元から何かをそっと拾い上げる。
それは何の変哲もない、ただの白いビニール袋であった。
土か砂でも詰めているのだろうか。底の方が丸く膨らんだ袋の中身はなかなか重いらしく、持ち手がすっかりと伸びてしまっていた。

「……ッ、あ!」

何のためにそんなものをここへ持ち込んだのか。
問う暇もなく、彼は掴んだ袋を勢いに任せて振り上げた後、あろうことか私のこめかみへとそれを叩きつけたのだ。
どすりという物騒な衝撃音と、鈍い痛み。視界には、チカチカと白い光が明滅している。
脳震盪を起こしたのだと気付いたのは、自分の体が地面へと頽れた後だった。

「う、あァ……」

掠れた呻き声をあげながら、私は曇天の空を仰ぎ見る。
限りなく広がる、白い世界。結晶の大きさを増した雪が、そこからとめどなく降り注いでいた。

「どう、して……」

こめかみの一撃と共に、吹き飛んでしまった喜びと淡い恋心。
それをどうにかして取り戻そうと、私は視線を彷徨わせ、彼の優しい笑顔を探した。

「ちょっと、力を入れ過ぎちゃったかな。ごめんね、でも怜ちゃんは何も心配しなくていいんだよ」

曇天に差し込むは、相変わらずの眩しい彼の微笑。
優太君は頬を上気させたまま、冷たい地面へと倒れ込んだ私の事をじっと優しく見下ろしていた。

「……怜ちゃん、すごく綺麗だ」

うっとりと呟かれたその賛辞は、本来であれば喜ぶべきものなのだろう。
だが、しかし。私は朦朧とした意識の中で、気が付いてしまった。
彼は、決して私の形を美しいと褒めているのではない。
切り裂かれた頬から未だ滲み続ける鮮血の色と、零れ落ちゆく生命の証にその心を奪われているのだと。

「……うそつき」

掠れた声音と共に零れた言葉には、弱々しいながらも隠しようのない絶望が色濃く滲み出す。

「ずっと傍にいてくれるって言ったのに、どうして」

――どうして、私を傷つけるような真似をするのだ。
今度は悲劇にまみれた涙を零しながら、こちらを見下ろし続けている優太君の笑顔に問いかけた。
すると彼は傍らに膝をつき、私の上体をその腕の中へと抱き上げながらカッターナイフを握り込んだままでいる右手の指先で頬を伝う涙をそっと拭い取ってみせる。
その仕草には浮かべられた笑顔と同じ優しさが宿っていたものの、彼の慈愛を感じれば感じるほどに、不可解な気持ちばかりが膨らんでいくのだ。
好きだと言いながら、なぜこのような仕打ちをするのか。
尋ねようと震える唇を再度開きかけたその時、優太君は微笑を浮かべたまま右手を大きく振りかざし、

「あああ……ッ!」

握り込んだその刃を、今度は私の手の甲へと深く突き立てたのだ。

「ずっとずっと、僕は怜ちゃんの傍にいるよ。嘘なんかじゃない」
「ッ、うあ、ァ……」

遠のきかけていた意識を肉体へと一気に引き寄せるような衝撃が、朦朧としていた私のすべてを覚醒させる。
刺された場所が、熱い。痛みをも超えて熱を持ったその鋭さに、思わず息を詰めてしまう。

「僕と怜ちゃんは、永遠になるんだ」

蕩ける笑顔と、残酷な唇から紡ぎだされる「永遠」とはなにか。
従来であるならば、生涯を共にする、添い遂げる事をそう呼ぶはずなのだが、彼が心に描いた「永遠」はどうも意味合いが違うような気がしてならない。
理不尽な暴力から齎される永遠などあるはずがない。
私は痛みに身悶えながらすべてを否定しようとしたのだが、

「あ……」

彼の欲する「永遠」の正体に、ふと思い当たってしまった。

「優太君、もしかして……」

死ぬつもりなのだろうか。
自らのものだけではなく、私の命をも奪って存在するかどうかも分からない「永遠」を夢見ようというのだろうか、彼は。

「いや、……ッ、嫌……!」

私は優太君の腕の中で、でたらめに激しく四肢を動かし必死の抵抗を示した。
死にたくないという恐怖と生への執着が、望んだ愛情が捻じ曲げられてしまった惨状が、手の甲を貫いた鋭い痛みを忘れさせるほどの衝動となって私の肉体を突き動かす。
今ならまだ間に合うはずだ。優太君を説得する事が出来れば、まだ取り戻せるかもしれない。私が望んだ幸せな日常へと、軌道修正が出来るかもしれない。

「やめて、優太君……っ、死にたくない、死にたくないよ……!」

地面を蹴り、どうにかその身を起そうと背筋に力を入れたのだが、無情にも再び刃は振り上げられた。
それは今度、私の太腿、足の付け根を僅かに逸れた場所へと深々突き刺さり、下肢の自由を激しい痛みでたちまち奪い去る。

「駄目だよ、怜ちゃん。暴れたりしたら、余計に苦しくなっちゃうから……。じっとしてて、僕に全部任せてよ」

半ば錯乱状態に陥った私を見下ろしながら、優太君は今度、困ったように眉尻を下げて微苦笑を浮かべると、まるで夜泣きの乳児でもあやすかのような仕草で私の背中をそっと摩った。

「怖がらなくても大丈夫。君の最後を見届けたら、僕もすぐにいくからね」

血の気を失いつつある私の身体を改めてその腕に抱き直した彼の体温は、凍えるような寒さの中にも関わらず、なぜだか酷く熱かった。

「怜ちゃんはさ、いつから僕のこと好きだった? 折角だから心臓が止まっちゃう前に、聞かせてほしいな」
「……っ、嫌……! イヤだよ、優太君……」
「僕はね、初めて会った時から怜ちゃんのこと好きだった気がする」
「優太君、お願い……っ、こんなことやめてよ……」
「だからね、嬉しかったんだ。二人とも同じ気持ちだったって事がさ」

こちらの悲痛な叫びは、どうやら彼の耳に届かないらしい。
それはもはや会話などではなく、一方的な独白だ。

「……僕の夢だったんだ。好きな人の傍にずっとずっと居ることが。誰にも邪魔されない、この世とは違う場所で――永遠に」

彼の紡ぐ残酷な夢物語は鋭いガラスの破片のように、私の肉体目掛けてひとつひとつ、突き刺さっていく。
優太君の想いを知れば知るほどに、刺し貫かれた傷が熱を持って激しく疼き、荒れ狂う波のような激情となって体中を駆け巡った。
思わずのたうち回りたくなるような感覚だった。
しかし、出血が酷くなってきたのか、肉体の方はというと徐々にその力を失い、冷たく凍り付いていく。

「ねえ、怜ちゃん」

そんな冷えきった私の身体を殊更に強く抱き寄せて、頬を摺り寄せながら優太君は自らの幻想に溺れ続けた。

「もう一回、聞かせて」

真っ赤に染まったカッターナイフの切っ先が、再び私の頬をそっと薙ぐ。

「僕のこと、好きだって言って欲しい。大好きだって、聞かせてよ。いいでしょ?」

これが最期になるんだから、と。
甘く囁きながら皮膚の表面を薄く傷つけ続けるその仕草は、実に無邪気である。
傷つけられれば傷つけられるほど、私は痛いほどに思い知るのだ。
心の底から私の死を、そして彼自身も死を望んでいることを。
私を甚振りたいのではなく、本気で添い遂げる為だけに現の世から旅立とうとしていることを――。

「優太、くん……」

ぜえぜえと、吐き出す呼吸に雑音が混ざり始め、より酸素を深く取り入れようと上下する胸は不規則なリズムで収縮を繰り返す。
ようやく絞り出した声も蚊の鳴くようなか細さで実に頼りない。
だが、彼の耳にはちゃんと届いていたようだ。
私が呼びかけると、優太君は僅かに耳をこちらへと傾け、言葉の続きを黙って促した。

「……大好きだよ。だから、こんなことはやめて、ずっと一緒に居てよ……」

一緒に歳をとって、いつか訪れる死が二人を分かつまで、ゆっくり時を刻んでいくという道を歩けないのだろうか。
なぜその選択肢が、彼の頭の中にはないのだろうか。

「永遠なんていらないから、私と一緒に生きてよ……!」

弱々しくも切実な叫びは涙で滲み、大きく掠れてしまう。
優太君はというと、私の声が届いているのかいないのか、相変わらずの優しい笑顔を浮かべたまま、あろうことか、逆手で握り込んだカッターナイフの切っ先を、今度は自らの二の腕へと沈めてみせたのだ。

「怖がらなくても大丈夫だよ、怜ちゃん。ほら、見て……。僕もすぐに、君を追いかけるから」

コートの袖口が、たちまち深紅へと塗り替えられていく。
その出血量から察するに、かなりの痛みを感じているはずだった。
なのに、彼は柔らかな微笑を少しも歪めることなく、どこか恍惚とした表情さえ浮かべて甘く残酷な言葉を吐き続ける。

「どうしてだろう、思ったより痛くないや」

そして、私は確信した。

「死ぬのって、案外痛くも怖くもないんだね。良かったね、怜ちゃん」

こちらの言葉はもう二度と、優太君には届かない。
彼は自らの願いを成就する事だけに意識を囚われ過ぎていて、他人の声など耳に入れるつもりはないのだと。
身体が、どんどんと冷たくなっていくのが分かる。
降り積もる雪のせいではない。体中を巡っていたはずの血液が徐々に外へと流れ出てしまったからだ。
皮膚ではなく、体内から冷たくなっていくような不思議な感覚があまりにも恐ろしくて、私は震える指先を伸ばし、優太君のコートに縋りつく。

「寒いよ、優太君……」

言いながら抱擁を請えば、血にまみれた優しい彼の両腕が、冷え切った私の身体を柔らかく包んだ。
だけど、優太君の体温もまた、凍える風と雪、とめどなく流れ続ける血液によって芯から冷え切ってしまっていた。
どんなに強く抱きしめられても、互いの肉体が温まることはない。
熱を失えば失うほど、生命が零れ落ちていくのが分かる。

「優太君、もっと……」

それでも私は、彼に強請った。もっと、強く抱きしめて欲しいと。

「離れたくないよ、優太君……っ」
「大丈夫、傍にいるよ」
「駄目、ずっとここにいて。ちゃんと抱きしめて……!」

命乞いには耳を貸さなかったはずの彼が、うってかわって要求通り、私の身体をより一層の力で、強く強く、掻き抱いてくれる。
だが、しかし。どんな手段を以ってしても、自分の中に溢れていた生命の欠片を留めておくことは出来なくなっていた。
次第に手足の先が痺れていき、やがてその感覚すら奪われて、四肢は凍り付いてしまったかのようにぴくりとも動かない。
視界も徐々に霞んで、こちらを覗き込む彼の微笑はその輪郭を失っていった。
どうやら鮮血と共に、恐怖心さえ体外へ流れ出ていってしまったらしい私の中に残った感情――それは、諦念だった。
優太君を好きになってしまった瞬間から、きっとこうなる事は決まっていたのだろう。
どうすればこの悲劇は避けられたのか、どうすれば優太君にこんな選択をさせずに済んだのかなど、今更考えを巡らせたところですべてが手遅れなのだ。
私はただ、受け入れるしかない。
彼の望んだ「永遠」に葬られることを。

「優太、くん……」

恐らく真っ青に染まっているだろう、震える唇を微かに開いて、私は大好きで仕方がない彼に向けて、最期の言葉を振り絞る。

「好きだよ、ずっと」

これまでも、そしてこれからも。
もはやその告白はほとんど声にはならなかったのだが、どうやら上手く伝わったようだ。

「僕も、怜ちゃんが好き。ずっと、大好きだから」

霞む視界の向こう、彼の表情は窺えない。
だが、冷たい指先が、私の首元を柔らかく包むその感触だけはどうにか感じ取ることが出来た。

「……大丈夫、もう辛い思いしなくて良いんだよ」

優しくも残酷な指先が、薄い首の皮膚へと少しずつ、しかし着実に明確な殺意をもって沈んでいく。
止めをさすつもりなのだろう。浅い呼吸によって零れる吐息さえ奪い去ろうと私の首元をぎりぎりと締め上げるその感触は、どこか切なく、物悲しかった。
私はいよいよ、死んでしまうのか。好きな人の腕の中で、好きな人の手によって。
とても無念な結末だと半ば落胆すると同時に、こうも思うのだ。
ようやく優太君の望みを叶えてあげられる、と。
想い人の命を奪い、そして自らの命を絶つ事でしか永遠を見いだせない彼に、私が死ぬことで最大級の愛情を示せるのだとしたら、唯一無二の恋人として生きていた甲斐があったのかもしれない。
いつだったか、本で読んだことがあった。心中とは本来、真の心根、真心を意味する言葉だと。
文字通り、優太君は私を死ぬほど愛してくれたのだろう。そしてその愛に殉ずる為、いま私の首を、憎悪ではなく純粋無垢な心で強く締め上げているのだ。

「あ、……っ、ぐ……」

瞳のフォーカスは、もはやどこにも合ってなどいなかった。
せめて最期に、大好きな彼の優しい笑顔を目に焼き付けておきたかったのだが、私がいま視界で捉えることの出来る景色といえば、しんしんと降り続く雪のぼやけた輪郭だけだ。
痛みも、苦しみも、冷たさも、切なさも、徐々に体から遠ざかり、残されたのは淡い恋心のみである。
不必要な要素が徐々に取り除かれ、互いへの温かい想いだけが其処に留まり続けるような感覚――ああ、きっと優太君はこれが欲しくて死を選んだのだろう。
愛し合う為に必要だったのは、肉体じゃない。削ぎ落された肉の中に潜む「真心」だったのだ。
それに気づいた瞬間、苦しげにはくはくと開閉を繰り返していた私の唇は、久方ぶりの笑みを象る。
同時に、血を失って冷え切っていたはずの全身が、じわじわと熱を持ち芯から温まっていくような、不思議な感覚に包まれた。
ふわりふわりと、四肢が宙に漂うかの如く浮遊感さえも加わって、私の魂は私の中から、少しずつ抜け出そうとしていた。

「ゆ……、た……」

その神秘的な瞬間を見届けていてほしくて、私は彼の名を再び呼ぼうとするも、残念ながら声にならない。
ただ下唇が僅かに震えたのみで、もはや言葉では自分の意志を伝えられなくなっていたのだ。

「あと少し、あと少しだから……」

宥めるような彼の声音がかろうじて耳に届いたと同時、私の気管を締め上げる指の力は、いよいよ加減や容赦を失う。

「……ッ、は……」

爪の先が深く沈み込み、ずぶずぶと、浸食する。
視界の淵から徐々に忍び寄る闇は、ほどなくして訪れるであろう絶命への入り口だ。
木々の騒めきも、風の音も、優太君の少し弾んだ呼吸さえも遠ざかる。どうやら聴覚も失われつつあるらしい。ゆっくりと、五感が死んでいくのが分かった。
優太君はいま、どんな顔をしているんだろう。
今生での別れを惜しんで涙を流しているのか、それとも相変わらず優しげな微笑を浮かべたまま、旅立ちの瞬間を静かに待っているのだろうか。
もはや自分の目で視ることが出来なくなってしまった彼の笑顔を、薄れゆく意識の中、暗闇に浸食されつつある瞼の裏で描写する。
浮かんでは消えていく、表情の数々。それが走馬灯だと気付いたとき、私は再びその口元を綻ばせながら、いよいよ死んでしまうのだなと思わず感慨に耽ってしまった。

「あ、あ……!」

優太君から与えられる「永遠」に抗うかの如く、ここへ来て肉体は激しい痙攣を繰り返し、意図せず指先や爪先が跳ね上がる。
私自身はもう、大好きな彼に殺されることを受け入れているというのに、魂が半ば剥離しかけている身体は現世にしがみつき、もがき苦しんでいた。
だが、そんな抵抗も長くは続かない。
ほどなくして再び私の四肢は力を失い、視界はとうとう暗黒に閉ざされる。
静寂を切り裂くようにして突如襲い来る耳鳴り、そして訪れる直後の沈黙。
風前の灯火であった生命が、いよいよ燃え尽きようとしていた。

「もうすぐだよ、怖がらないで」

失われた五感がかろうじて最後に触れたもの。
それは、凍りつきそうなほどに冷え切った私の頬に落ちた、柔らかな唇の感触だった。

「これからは、ずっとずっと一緒にいられるから……」

来世なんていらない。何物にも生まれ変わることなく、二人きりで無限の時を漂い続けよう。
甘く残酷な彼の願いが、鼓膜ではない、否――もはや五感のどこでもない場所からじわりじわりと浸潤するように伝い広がっていく。

「僕たちはきっと、こうやって一緒に死ぬ為に生まれてきたんだね。嬉しいよ、怜ちゃん……。僕、怜ちゃんとこうやって死ねることが、何より嬉しくて幸せだよ」

瞬間、私の意識は曇天の彼方へとはじけ飛ぶ。

「さよなら、怜ちゃん」

すべてを手放すときに目撃した眩しい輝き。
それはもしかすると、彼が待ち望んだ永遠への道標だったのかもしれない。