ケモ耳獅子×ケモ耳狛犬

両手両脚を畳の上へと無造作に投げ出し、大鼾をかいて眠っていた漣の鼻腔を、甘い香りがふと掠める。
漂う香りに誘われるようにして意図せず瞼が開き、心地よい夢の世界は途端に現実の向こう側へと追いやられてしまった。
どのような夢であったかなど目を開いた途端に忘れてしまったが、唐突な覚醒を不愉快に感じたということは、少なくとも漣にとって現実よりも居心地の良い世界だったのだろう。
どうせいま目覚めたところでやる事もないのだと眉を寄せつつ二度寝に備えて寝がえりを打ったのだが、漂うその甘さの中、想い人の気配が入り混じっている事に気が付いてしまった。

「狛、帰ってきたのか!」

人に懐かぬ野良猫のような俊敏さで体を起こし、堪らず駆け出す。
中国からやってきた青龍の化身と共に彼が任務へと出かけていったのは何日前だったか。
どこかの館に巣食う悪霊を退治する事が目的だと主から聞かされていたが、退魔を専門とする彼にしてはやけに手こずっているなとここ数日、やきもきとしていたのだが、ようやく帰還したのかと漣が表情を輝かせたのも束の間――。

「……なにがあったんだ、コレ」

待ち人は、あろうことか女の膝の上で魘されていた。

「あら、漣さん」

縁側にて、自身の露わになった太腿へ狛を寝かせ、まるで子供を寝かしつけるかの如く仕草で彼の黒髪を梳いていた銀寿は顔を上げると、駆けつけてきた漣におっとりと微笑みながら人差し指をそっと艶やかな唇の前で立ててみせた。

「起こしたら可哀想ですわ。しばしの間、お静かに」

振り向いた銀寿の背後からそっと狛の顔を覗き込んでみる。
どうやら気を失っているらしい。
凛々しい眉は苦々しげに寄せられており、顔面は蒼白、薄く開いた唇からは苦しげな呻き声と聞き取れない寝言が絶え間なく零れ落ちており、随分と憔悴している様子であった。
銀寿曰く、任務先で青い作業服姿の巨人に屋敷内で散々と追い回され、心身ともに疲弊し切っているらしい。
ちなみに鼻腔を擽った甘い香りの正体はというと、情けない姿を晒した狛を見かねた茶屋娘のねねこが分けてくれた団子である。しかし未だそれは手つかずのまま膝を貸す銀寿の傍らにて所在なさげにただその匂いだけを辺りに漂わせていた。

「……変わった悪霊とやり合ってたんだな」

悪霊とは大体が世の理を覆す奇怪な姿や能力を備えているものだが、それにしても館に巣食う作業服姿の巨人とは妙な輩だと漣が首を傾げると、銀寿も同調するように小首を傾げ、戸惑いの滲んだ微笑を浮かべた。

「狛さんを抱えて帰ってきた蒼牙くんも随分と疲れていましたから、手強い相手だったんでしょうね」

どうやら彼は本丸に辿り着く前から既に意識を失っていたらしい。
腕っぷしが立つような男ではなかったが、彼も陰陽師の端くれである。並大抵の悪霊ではとても敵わぬ程の霊力を持っているにも関わらず、ここまで疲弊するとは一体どんな強敵と対峙してきたのだと肝を冷やさずにはいられなかった。

「銀寿、そこ代われ」

が、しかし――どんな事情があるにせよ、想い人が他人の膝を借りて寝込むなど心の狭い漣としては許容しかねる状況だ。
ずかずかと苛立つ足取りで銀寿の元へ歩み寄ると、その傍らに腰を下ろして胡坐をかき、意識を失っている狛の頭をこちらへ寄こせと自らの膝を掌で叩いてみせた。
敏い女はその仕草ひとつで漣の心境を読み取ったらしく、なにやら意地の悪い微笑をほんのりと口元へ浮かべたあと、わざとらしく肩を竦めながら促されるまま、狛の頭を引き渡す。

「残念ですわ。狛さんの可愛らしい寝顔、もっと眺めていたかったのですけれど」

漣を揶揄する為だけに、平気な顔をして心にもない台詞を口にするこの女狐は相変わらず侮れない存在であると半ば感心しつつも、これ以上は関わり合いになるまいと彼女からまんまと奪った狛の頭を自身の太腿へと乗せ、さてこれからは心ゆくまでこの寝顔を堪能するぞと未だ苦しげに歪められているその表情をじっくりと見下ろしてみる。
枕にしていた女の柔い太腿が、突如硬い筋肉に変わったせいか、狛は寝心地悪そうにその眉を険しく顰めてみせると、納まりの良い場所を求めているのかもぞもぞと落ち着きなく身じろぎを始めた。
ああ、このままではきっとすぐに目覚めてしまうだろうな、と懸念した矢先、漣と揃いの紅化粧を施した瞼が薄く開き、月の輝きとよく似た金色の瞳がこちらへと向けられる。

「まったく、お前ってば意外と贅沢な野郎だったんだな。女の膝でしか眠れないっていうのかよ」

苦笑交じりに八つ当たりの言葉をぶつけてはみたものの、寝起きの頭では未だ現況が把握出来ていないのか、寝ぼけ眼のまま狛はゆっくりと瞬きだけを繰り返している。
夢と現の境界を馴染ませるように、ゆっくりと。
たっぷり時間を掛けた後、ようやく意識が覚醒を始めたらしい。

「……漣?」

落ち着いた声音が、ようやく自分の名を呼んでくれた。

「任務のこと、覚えてるか? 蒼牙がお前を本丸まで抱えて帰ってきたんだとよ」

すると狛は逡巡の後、ようやく自らが置かれた状況に気が付いたようだ。
無事に清州へ還りついた事に対する心からの安堵と、恐らくは相当手強い相手と対峙したのであろう任務の過酷さが入り混じる複雑な表情を浮かべて頭上の漣を眺め上げていた。

「あとで蒼牙君に謝らなければ……」

言いながらも、今はその気力がないのか再び狛は力なくその瞼を閉ざしてしまうと、寝心地があまり良くないであろう漣の膝の上に頭を預けたまま溜息を一つ零してみせた。

「申し訳ありません、しばらくこのまま横になっていても良いですか」

言わずもがな、大歓迎である。むしろ、それを求めて銀寿の膝から彼の身体を奪ったのだ――とは、とても白状出来ず、

「俺の膝は高いぞ。それでも良いなら、いくらでも貸してやる」

などと傲慢な物言いで本音を覆い隠す事にした。


寝込んでいる狛の元へ団子を持って行ったは良いが、茶を添えるのを忘れていたとねねこは盆に湯飲みを二つ載せ、再び縁側へと向かっていた。
あんなに青い顔をしていたのだ、飲み物もなしに団子など頬張ったら喉を詰まらせてしまうかもしれないと急いでいると、ふと何者かに前垂れの結び目を軽くちょいと引かれ、思わず足を止める。
振り返ると、気を失っている狛に膝を貸していたはずの銀寿が障子の後ろへ身を隠すように立っているではないか。

「どうしたのよ、銀寿。そんなところで……」

不審な彼女の様子を指摘しようと口を開いたその時、見上げた先で銀寿が長くしなやかな人差し指を自身の口元へと当て、声を出さぬようにと言葉の続きをそっと制止した。

「ねねこちゃん、そのお茶は私たちで頂きましょう。狛さんたちの邪魔をしたらお馬さんに蹴られてしまいますわ」

いや、馬ではなく獅子かしら……。
などと言いながら、銀寿は盆に載せられた二つの湯飲みのうち一つを自らの手に取ると、障子の影に身を半ばまで隠したまま、ずずっと呑気に茶を啜り始める。

「馬だの獅子だの、なんだっていうのよ」

銀寿の態度が解せず、ねねこも彼女に倣って障子の影に身を潜めながら、縁側の様子をひょいと覗き込んでみる。すると、

「……確かに、獅子が居るわね」

覗き見たその先で、相変わらず狛は具合が悪そうにその身を横たえていたのだが、彼がいま頭を預けているのは銀寿の膝ではなく、獅子の化身である漣の膝であった。
なるほど、確かに水を差すような真似を仕出かせば馬――もとい、獅子に蹴られて怪我をしてしまうかもしれない。

「要するに銀寿は漣に役目を取られちゃったってワケね」

基本的には性別や年齢を問わず、獅月漣という男は誰に対してもそれなりに優しい男であるのだが、その中でも相棒の狛には特別な想い――要するに性別を越えた恋慕を抱いている為、その甘やかしようは見ているこちらが思わず赤面してしまう程だった。
が、しかし。当の狛はというとまさか同性から下心を向けられているとは知る由もなく、彼の好意を単なる親切と解釈をしているらしく、その想いは今のところ報われてはいない。
見た目によらず、辛抱強い男だとねねこは半ば呆れつつも、しばらく銀寿と共に茶を啜りながら焦れったい関係を保ち続けている二人の男の様子を不安げな面持ちでそっと障子の影から観察し続けていたのであった。