呪術師×人魚姫の悲恋物

SCENE 1

ナレーター:むかしむかし、あるところに、人間の王子に恋をしてしまった可哀想な人魚がいました。彼女は美しい声と引き換えに人間と全く同じ二本の脚を手に入れ、純粋なその心を占める王子のもとへと向かったのですが、彼女の想いは報われず、悲しみに半ば張り裂けた胸を抱えたまま海へとその身を投げ、やがて泡となり消えてしまったのです。しかし、哀しみの海へ沈んでいったのは彼女だけではなかったことを皆さんはご存知でしょうか。人魚が身を投げたほの暗い海の底、泡になった彼女を見上げながらその身を嫉妬の灰に焦がした青年がいたことを――。

SCENE 2

深海を泳ぐ魚が立てる波音

ナレーター:人魚も深海魚も滅多には近づくことはないほの暗い海底の城。そこには人間と同じ手足を持ちながらも皮膚の所々に漆黒の鱗の欠片を持つ水棲人の呪術師が住んでいた。他人を陥れるための呪術を習いに来るもの、実力以上の力を得るために秘薬を欲するものなど、己の欲望に溺れ堕落の道を選んだ卑しい人魚たちだけが訪れるこの場所に、どうしてだか今日は妬みや支配などの心を一切持ち合わせてはいないだろう一人の純粋な人魚が珍しく訪れていたのだった。

呪術師:人間になりたいだって?

人魚:ええ。どうしても二本足が必要なの。あの人に振り向いてもらうためには人魚のままではダメなのよ

呪術師:(戸惑ったような唸り。考えた末、思いつめた様子で口を開き)わかった。三日後、またここに来なさい。人間になれる薬を渡そう

人魚:(歓喜の声を思わず漏らす)

呪術師:(複雑な心境で吐息を漏らし)

ナレーター:途端に眩いほどの輝きを放った彼女の笑顔を、呪術師は恐らく一生忘れることはないだろう。彼女が心の奥底から人間に生まれ変わることを望み、王子との再会を焦がれるほど呪術師はその笑顔を腹の中で腐らせる。なぜなら、呪術師は彼女に恋をしていたからだ。

深海を泳ぐ魚が立てる波音~フェードアウト

SCENE 3

ナレーター:どうすれば彼女の心を海底へ取り戻すことが出来るのか。どうすれば地上を二本足で歩く人間の男を忘れさせることが出来るのだろうか。悩みぬいた挙句に呪術師が作り出した薬は、邪な思いと身勝手な感情に満ち溢れていた。その薬には三つの呪いがかけられていたのだ。一つは、脚と引き換えに人魚は声を失い人間との意思疎通は一切かなわなくなってしまうというもの。もう一つは、一歩踏み出すたびに二本足は針を刺したような痛みに襲われるというもの。そして最後は、王子の心を彼女が射止められなかった場合、彼女の身体は泡となり海へ消えていくというものだった。

呪術師:これを飲めば鱗は剥がれ落ち、人間と同じ脚がたちまち生えてくる。しかし、君はその脚と引き換えに声を失うこととなる。万が一、恋が破れるようなことがあればその命までもを消し去るだろう

人魚:(一瞬怯んだように息を詰めるが、心を奮い立たせ)あの人に逢えるのなら、声を失ったとしても後悔しません

呪術師:(人魚の発言の思わず驚いて息を呑み)正気か。声がなければ自分が命の恩人だと男に伝える術はない。それに、あの男と結ばれなかったら君は泡になり人魚にも人間にも戻れないんだぞ。そこまでして、何故、人間の男を……

人魚:(半ば呪術師の言葉尻を遮るようにして)あの人と結ばれない生涯など、私には必要ありません。例え命を失くしたとしても、あの人に逢えたら私は幸せ……どうか、その薬を私にください

呪術師:(落胆したような吐息)

ナレーター:あんなにも恋焦がれた彼女を引き止める力を持たぬ自分の非力さを呪術師は呪ったが、しかし、呪われた薬を手にして涙ぐみながら微笑み歓喜する彼女を一体、誰が止められたのだろう。コバルトブルーの美しい瞳には、既に人間の男しか見えていない。どんなに呪術師が訴えかけたところで、死を覚悟した彼女の耳に届くはずもなく、それは呪術師が密かに抱き続けていた恋の終わりを証明していた。そして、運命の瞬間はやってくる。

SCENE 4

ナレーター:声が出せぬもどかしさにも、一歩踏み出すたびに痛む両足の枷にも彼女の決心と恋心を打ち砕くことは出来なかったようだ。痛々しい彼女の姿を見た姉たちが魔術師の元を訪れ呪いを解く方法を教えてくれと訴えてきたのは、あの薬を手渡してから一週間後のことだった。もちろん、呪いを解く術も用意されていたが、やはりそこには呪術師が抱く邪な横恋慕が息を潜め、今か今かと力が解き放たれるのを待っていたのである。彼女が命を繋ぎ止める方法は、ただ一つ。呪術師の作り上げた宝剣でその心を奪った男の心臓をひと突きにすること。男の死か、彼女の消滅か。宝剣を手にした姉たちは早速人間に姿を変えた可哀想な人魚の元へ訪れたが、数日後に呪術師が海底から見たものは、泡となりエメラルドの海へと消えていく彼女の姿だった。

ガラスの割れる音 

呪術師:こんなもの……こんなもの、こんなもの……ッ(初めは感情的に、徐々に涙ぐみながら)

ナレーター:結局のところ、呪術師は束縛するつもりが彼女を永遠の無へと還してしまったのだ。人魚としての幸せも、人間としての幸せも手に入れる事が出来なかった彼女は、その身を海へ投げ出す瞬間に何を思ったのだろう。呪われた薬を作り上げた呪術師を恨んだのだろうか。いや、違う。泡となり消えるその瞬間まで、結ばれる事はなかった己の哀しい恋の結末と、命と引き換えに愛する男を胸を痛めながらも想い続けたに違いない。苦悩の末に猛毒を差し出した呪術師の想いを知ることもないまま、ただ、叶わぬ恋の結末を小さな身体全身に受け止めて。彼女は、本当に幸せだったのだろうか。

波音

SCENE 5

ナレーター:むかしむかし、あるところに。人間の王子に恋をしてしまった可哀想な人魚がいました。王子は命の恩人が目の前で口を閉ざし優しく微笑む少女だとは気付かぬまま、悪戯な偶然が重なったその結果、ほかの少女と結ばれてしまったため、人魚は王子と結ばれることはありませんでした。それでも、自分が真の恩人だと気づけずにいた王子を恨むことも、呪術師の作り出した薬を恨むこともなく、数百年後にその魂は深海の底から救い出され空へと還り、天上からいつまでも王子の幸福を見守り続けたのです。そんな彼女に思い焦がれ続けた呪術師は、今もなお海底の城でひっそりとした暮らしを続けていました。何十年も、何百年も、自ら編み出した秘薬により姿を消してしまった彼女の幻影を瞼の裏に蘇らせては涙に暮れ、他の少女と結ばれてしまった王子、そして自らの呪いを憎みながらいつまでも嘆き続けました。それからまた、数百年の時が経ったある日のこと。泡となり消え去ったはずの彼女に瓜二つな人間を難破船から呪術師が救い出したことにより新たな恋物語が幕を開けました。今度は呪術師が秘薬を飲み干し皮膚の鱗を取り払うと、その命と引き換えに彼女との再会を果たすことになるのですが――・・・一体、彼がどんな結末を迎えたのか。それは、またの機会にお話しましょう。