センリの回想録

狙われた骸

闇夜に紛れ、静まり返った寺社内に忍び込む不審な影がひとつ横切った。
夜半の見回り最中、予期せぬ事象を目撃した住職は思わずはっと息を呑み、行燈を手にした右腕を目いっぱい伸ばしてその正体を見極めようと目を凝らす。
しかし、影は既に見当たらない。
薄明りの中に浮かぶそこには化け物が這いずった跡などの痕跡も一切残されてはおらず、却って不気味さが増したようだった。
あの影は気のせいだと廊下を引き返したい思いに駆られる住職であったが、今日ばかりはそれが難しい。
日中、この萬松寺にて織田家の主であった信秀の葬儀が行われたのだが、未だ彼は棺に納められたまま、この寺社内にて安置されていたのだ。
火葬前の遺体にもしもの事があれば、次期当主であり〝尾張の大うつけ〟と称される信長が黙っていないだろう。
葬儀の際にも派手な装いでこの萬松寺に姿を現し、位牌へ抹香を投げつけるという粗暴な行いにて参列者たちの度肝を抜いた男である。
こちらの不手際が明るみに曝されれば最後、寺社に火を放ちかねなかった。

「様子を見に行くしかない、か……」

気は進まなかったが、正体不明の侵入者と信長、どちらが今の自分にとって脅威となるかを考えたとき、住職の脳裏に過ったのは湯帷子姿のうつけ者だった。
鬼より蛇より、若き織田家当主の存在がなにより恐ろしかったのだ。
意を決すると住職はその歩(あゆみ)を進め、信秀の眠る床の間へと足を踏み入れた。
何事も起きないでいてくれという住職の願い虚しく、行燈の照らす薄明りの先に不審な影を再度見つけてしまう。

「……っ!」

床の間へと突如差し込んだ灯りに驚いたのか、棺の中を覗き込んでいたらしいその影は慌てた様子でこちらに振り向いた。
その正体は、華やかな異装に身を包んだ猫耳の少女である。
虹彩異色の瞳と鋭い牙が煌めく彼女は恐らく〝マドウクシャ〟ではないだろうか。
尾張国知多郡の離れ小島には、骸を盗む化け猫が現れるらしい。
二十年の歳月を越えると猫は尾の先が二股に分かれ、三十年を越えると魑魅魍魎を従える妖怪になるという。
マドウクシャは更に気の遠くなるような月日の果てに生まれる物の怪で、人間の骸を奪う習性を持っている。
その中でも〝火車〟(かしゃ)と呼ばれる妖怪は火葬場や葬列に襲い掛かる凶悪な存在ゆえ、要人の葬儀が執り行われる際は陰陽師を招くことも少なくない。
実際、日中に執り行われた信秀の葬儀にも織田家お抱えである狛犬の化身が同席していたのだが、残念ながら彼の式神火車退治ではなく、葬儀場にいつまでも姿を現そうとしなかった信長の捜索手段に成り下がっていたという。

「そこで何をしている!」

住職が声を荒げると、マドウクシャの少女――センリは威嚇するような唸りをあげ、野良猫と変わらぬ挙動で棺から飛び退いた。

「昼間の犬っころがようやく居なくなったっていうのに……。今度は坊主かい?」

あどけなさの残る見た目とは裏腹に、彼女は老獪な言葉遣いを繰り出した。

「だが、経を詠むことしか出来ない坊主なんか、あたしの敵じゃないね。はらわたをブチまけられたくなかったら、今すぐ寝床に帰りな」

闇夜の中でもぎらりと凶悪に輝く犬歯はその言葉通り、人間の腹など容易に食い破る事が出来るだろう。
かと言って信秀の骸を差し出せば、信長にどんな仕打ちを受けるか分からない。
まさに前門の虎、後門の狼である。

「なんなら、今この場でアンタを殺して骸にしてやってもいいんだよ」

今すぐにでもこの場から逃げ出したいのは山々であったが、すっかり足が竦んでしまって動かない。
尾張のうつけとマドウクシャの板挟みにされ、住職は半ば思考を放棄しつつあった。
このままでは、どちらに転んだとて自分の命は失われるのだ。
恨むべきは、信秀の見張り役を引き受けた己の不運であろう。
もうどうとでもなればいい、と観念したように住職が視線を伏せた、その時だった。

織田家当主の骸を狙うとは、見所のある化け猫だ」

薄闇の中に、今度は仁王像の如く猛々しい影が浮かび上がった。
その影はセンリの背後から突如姿を現すと、彼女の首根っこを容赦なくむんずと掴み上げ、愉快そうに口端を歪ませている。

「にゃっ!」
「の、信長様……!」

闇夜よりいでし男の正体は、昼間この場所で位牌に抹香を投げつけた尾張の大うつけ――織田信長その人であった。