不知火灯香の回想録

桶狭間の戦い

「なにか、近づいてくる……」

吐き掃除の手を止め、灯香(とうか)は背後をふと振り返る。
清々しくも静謐な時が流れる熱田神宮の境内には到底相容れぬ強大な力が近づく気配を感じ、思わず眉根を顰めてしまう。
ほどなくして、小気味よい蹄の音が耳に届いた。

「あれは……」

鳥居の向こう側から現れたのは、戦支度を整えた男である。
小姓衆を従え、馬上にて悠然と手綱を握るその姿は表情こそ微笑を浮かべていたものの、仁王像に負けず劣らずの殺気と威圧を無遠慮に撒き散らしていた。

「そこの巫女、祈祷を頼む」

雷鳴の如く轟く低音に命じられ、灯香は知らず竹箒を握る指先に力を込めてしまう。
どのような怨霊を目の前にしても決して動じた経験のない灯香が、現世に生きるごくごく普通の人間にここまでの畏怖を覚えたのは生まれて初めての事だった。

「貴方の望みは……」

尋ねると、男は怖気を誘うような不敵の笑みを浮かべてみせる。

「我に、勝利を」
「戦勝祈願、ですか……」

目の前の男が、一体どこの戦場へと赴くのか。
尋ねずとも、現情勢を覆しかねないほど大きな戦いであることは容易に想像がつく。

「わかりました。では、こちらへ……」

――自らの祈りによって、世が覆ってしまうかもしれない。
そんな不吉な妄想に囚われながらも灯香は男たちを境内の奥へ誘うと、のちに第六天魔王と世に恐れられる事となる男の為に祈りを捧げたのであった。