露乃瑠璃の回想録

今川の黒蜻蛉

桶狭間の戦いから幾年かが経過した頃、家康は妙な噂話を耳にした。
岡部元信が信長から取り返した主の首を臨済寺の池で洗い清めて以来、妙な出来事が起こっているらしい。
池の水が流れ込んだ田んぼでは血のように赤く染まった稲がたびたび実り、義元の命日に至っては黒い羽を持つ蜻蛉が用水路上へ一斉に湧くのだという。
人々はこれを〝義元の怨念〟と恐れ、桶狭間の戦況など知る由もない無邪気な童ですら黒蜻蛉を嫌って捕まえようとしなかった。
まるで平安の世から伝わる御伽噺のようだとはじめは鼻で笑い飛ばしていたのだが、どうしてだか駿府を訪れたついでに噂の真相を確かめてみたいという衝動に突如駆られ、従者に無理を言って奇しくも義元の命日にあたる本日、臨済寺を訪れる運びとなったわけである。

「こ、これは……」

背後に控えていた従者はあまりの光景に息を呑み、何歩か後ずさる始末であった。
家康も眼前の光景に思わず双眸を見開き、しばし言葉を詰まらせてしまう。
まるで用水路を覆い隠さんばかりに飛び交う蜻蛉の大群は、不気味としか言いようがなかった。
腐肉に群がる蛆の如く水の流れを辿る黒い羽々は、義元の怨念、もしくは彼の流した血の匂いでも嗅ぎ取っているのだろうか。

「家康様、長居はよした方が良いでしょう。此処はあまりにも不吉です」

死の香りから逃れるかの如く自身の口を掌で覆いながら、従者は言う。
迷信や神話の類など眉唾物であるといつもなら取り合わない家康であったが、この凄まじい光景を目の当たりにしてしまってはその信念も容易く崩れ落ち、ほとんど無意識で彼の提案に何度も頷いてしまっていた。
――が、その時である。

「待て、なにか居る」

池の向こう岸に、鮮やかな瑠璃色の輝きを見つけた。

「あら、今年は松平家の方がいらっしゃったのですね」

黒い羽ばたきに霞む視界の隙間から、少女が笑いかけてくる。
腰に大小を差した袴姿の彼女は、その背に澄んだ水面のような蜻蛉の羽根を持っていた。
もしや黒蜻蛉たちの親玉か何かだろうかと思わず訝しむが、その美しい出で立ちと穏やかな口調は、この不気味な群れに全くそぐわない。

「其方は黄泉の使いであるか」

家康が尋ねると、蜻蛉の少女――露乃瑠璃(つゆのるり)は控えめな微笑をその可憐な口元に携えたまま、小さく頷いた。

「日ノ本中を旅して、この世に残る怨念を一つ残らず彼らに食べさせています」

言いながら瑠璃が指を伸ばすと、その先に一匹の蜻蛉がふわりととまる。

「恨みに縛られた死者に代わって、魂を少しずつ天へ誘うのです。ほら、お行きなさい」

告げられた合図と共に広げた羽根をはためかせ、漆黒の蜻蛉が再び宙へと舞い上がった。
現世に残された怨念に肉体を染められたおぞましいそれは、まるで天に還るかの如く真っすぐと上昇し、やがて光の中へ消えていく。
その腹いっぱいに恨みを食らいつくし、黄泉へと旅立ったのだろう。

「今川トンボの正体は、恨みを食らう黄泉からの使者でしたか。餌に困らぬこの戦国の世が、彼女たちにとって喜ばしいことなのか、それとも嘆かわしい事なのか……」

従者のそんな呟きを耳にした家康は、ふとこの国の行く末について思考を巡らせる。
戦を糧として暮らすのは、なにも黄泉からの使者だけではない。
首級を挙げる事で飯を食う武士たちは太平の世が訪れた後、どう生きるのだろう。
そして、日ノ本の頂に立った天下人は齎したその平穏の中で今度は何を目論むのか。
天下布武を謳う信長は、武力で寺家と公家を制し、政権を掌握するつもりでいるらしいが――その先は、どうなる。
いつの日か泰平は覆され、再び争いが始まるのではないだろうか。
途端に、人々の遺した怨念を食らい続ける蜻蛉たちが憐れに思えてきてしまう。
この世の恨みを食い尽くせるはずがない、と。
黒蜻蛉を操る彼女は、自身の行いが不毛であると承知しているのだろうか。
稲穂を赤く染める程の怨念をその身体いっぱいに溜め込んだ蜻蛉が次々と黄泉へ旅立つ光景を見上げながら、家康はふと思う。
永遠とは残酷だ。
終わらぬ輪廻を断ち切らぬ限り、真の泰平など訪れはしないだろう。
武力制圧による統治を目論み続ける限り、この忌まわしき蜻蛉は家康の周りを飛び続けるに違いない。

「……ならば、法で律するまでだ」

眼前を飛び交う義元の怨念が、このとき家康にひとつの決意を抱かせる。
自身が天下を手にしたあかつきには、武力をも法で縛るのだ――と。

蘭丞琉那の回想録

支配と自由

川のほとりに腰を下ろし、せせらぎの中へと足首を浸す。
癒しの音色と相俟って、肌を通り過ぎていくひんやりとした柔い水圧はいつだって心地が良かった。
戦に加わる事もなければ、男たちの為に夜伽を務めるわけでもない。
ただ、鑑賞される為だけに異国の地から信長の元へと献上された蘭寿の化身である琉那(るな)は、五条川の向こうに広がる世界を知らずにいた。

濃姫様、清州の外ではどのような戦が繰り広げられているのでしょう」

琉那は対岸の景色を見据えたまま、傍らへと寄り添う濃姫にふと尋ねる。

「ここから眺める世界は静かでとても美しいのに、御館様はこれ以上なにを求めているのですか」

第六天魔王と恐れられている清州の城主、織田信長はその不敵な佇まいとは裏腹に雅を愛する男であった。
宝物庫は南蛮美術と茶器であふれ、引き連れる側室や小姓たちもひとり残らず眉目秀麗ときている。
特に正室として迎え入れられた濃姫の美しさは格別で、ぞっとするような色香は琉那の心ですら時折惑わず程だった。

「この世のすべて、かしら」

白く細い指先で川面を弄びながら、濃姫が妖しく囁いた。

「この世の、すべて……」

途方もない話であったが、あながち夢物語でもないのだろうかと琉那は思う。
彼の戦働きを目の当たりにした事など一度もないのだが、美しい世界を我が物とするために残虐非道の刃を振るう血塗れ(ちぬれ)姿が自然と瞼の裏に浮かんだ。
天下統一を果たしたあかつきには、積み上げた骸の頂から手にした絶景を見下ろすのだろう。
人は、それを支配と呼ぶ。だが、不思議と琉那は嫌悪を抱かなかった。
それどころか――。

「この世が御館様の手に堕ちれば、私はこの川を越えられるのですね」

うっとりとした声音でそう零すと、濃姫は琉那の言葉を肯定するように川面(かわも)を弄んでいた指を伸ばして琉那の白い頬を優しく撫で上げた。

「そうね、貴女も私も自由になれるわ」

――宝物(ほうもつ)として城に飾られているだけの美術品ではなくなるもの。
薄紅に彩られた唇から語られる甘い空想は、川辺で夕涼みをする琉那たちの理性をじわりじわりと浸食していく。
信長が世に泰平を齎したところで、果たして人々にその姿を愛でられる為だけに生まれた鑑賞用の自分に自由が与えられるだろうか。
だが、外の世界に焦がれるあまり、そして濃姫に唆されるたび、琉那は根拠のない希望と憧れを際限なく募らせてしまう。

「ああ、早くその時が来ないかしら。私は、この橋を渡った先にある景色に触れてみたい」

はやる想いを堪え切れず、上擦った声で自らの願望を琉那は思わず口走る。
もはや、それは恋慕に限りなく近い衝動であった。

狗巻狛の回想録

織田信秀の葬儀

織田家の当主であった信秀の葬儀がしめやかに執り行われている最中(さなか)、狛(はく)は平手政秀と共に寺の外を真っ青な顔を曝しながら忙しなく走り回っていた。

「政秀様、いかがでしたか?」

額に滲む汗を式服の袖で拭いながら狛が尋ねると、政秀は苦々しい表情を浮かべてその首を力なく左右に振る。

「まったく、御父上の葬儀に姿を見せぬとは……。なんたるうつけか」

亡き信秀に代わり、織田弾正忠家の家督を継ぐはずの男が未だ葬儀場に姿を現そうとしない。
その男の名は、織田信長
知勇に優れた武将と讃えられた信秀の嫡男でありながら、尾張の大うつけと称される実に型破りな性分の持ち主ゆえ、後見役の政秀は常に胃痛を抱えていたという。
信長という男はまず、その出で立ちからして異様であった。
髷も結わず色鮮やかな飾り紐で乱雑に伸ばした髪を束ね、湯帷子に袖を通し、腰には瓢箪と草履をぶら下げて柿を齧りつつ町を堂々闊歩するその姿は、うつけでないとすれば狂人としか思えない。
その奇天烈さは出で立ちだけに留まらず、乱暴な振舞いで政秀をはじめとする忠臣を悩ませる一方で、身分を気にかけず町の若者と童の如く無邪気に遊びまわる一面も持っているらしい。
生まれを鼻にかけないその振る舞いは同年代からの支持を集めているとも聞くが、織田家の跡取りとしては全く相応しくない言動であると家老連中は信長を〝うつけ〟と蔑み、織田家の行く末を憂いてやまない。

「政秀殿、狛殿!」

――と、その時である。
ひとりの寺小姓が半ばつんのめりながら狛たちの元へ息せき駆け寄ってきた。

「どうしたんですか、そんなに慌てて……」

荒げた呼吸と共に大きく弾む背を宥めるように撫でてやりながら狛が尋ねると、何かを察した様子の政秀は寺小姓が事情を語り出す間も待たずに萬松寺内へと引き返してしまった。

「ま、政秀様?」
「狛殿もお急ぎください。信長様が、信長様がいらっしゃったのです!」

父の葬儀に跡取り息子が少し遅れて姿を現しただけで、ここまで取り乱す必要があるだろうか。
否、尾張の大うつけと称される男が何事も起こさぬはずがない。

「……わかりました、ご報告ありがとうございます。私もお寺へ戻ると致しましょう」

そう言って狛もその身を翻すと、政秀の後を追うようにして未だ葬儀の続く萬松寺へと大急ぎで駆け戻った。


辿り着いた先に待っていたのは、耳が疼くほどの静寂であった。
信長が坊主の一人や二人は殴り倒しているのではと危惧していた狛はひとまず胸を撫で下ろしたのだが、次の瞬間、ぎょっとその目を見開き、思わず息を呑む。
居並ぶ参列者の先頭に立つ男の出で立ちが、死者を弔うに相応しくない鮮やかな色彩で飾られていたからだ。
後頭部で揺れる組紐はあろうことか紅白の二色、片袖の抜かれた湯帷子に派手な柄の半袴という装いで祭壇前に立ち尽くすその背は、さながら死者に裁きを下す閻魔のようであった。

「……これが、俺なりの報いだ」

静まり返った空間に、唸るような低音が絞り出される。
その呟きはどこか寂し気に滲んでいたような気もするが、それは落胆だったのかもしれないし、単なる悪態だったのかもしれない。
彼の真意を掴み損ねていたのは狛だけではなかったらしく、信長がようやく口を開いたにも関わらず、政秀すら未だ彼の言動を咎められずにいた。
――が、次の瞬間。事態は一変する。

「の、信長様!」

今しがた紡がれた声音のやるせなさとは裏腹に、動物的な所作で信長は抹香をその手に鷲掴むと、あろうことかそれを位牌目掛けて投げつけたのだ。
あまりの行いにさすがの政秀も言葉を失い、ただその肩をわなわなと震わせるばかりである。
そして沈黙を切り裂いてあがった一瞬のどよめきも潮が引くように再び粛然の波にのまれ、いよいよ空間が凍り付く。
だが、当の信長は意に介さない。
彼は誰と視線を交わらせることもなく、そして自らの行いについて事情を語ることもなく踵を返し、悠然とその場を立ち去った。

「政秀様……!」

信長の後を追うべきか、否か。
意見を仰ぐべく狛が政秀の顔を覗き込むと――。

「……これぞ、尾張の大うつけ。織田信長よ」

彼は、不敵にほくそ笑んだ。

「ま、政秀様。それは一体、どういう……」

尋ね返してみたものの、意味ありげな微笑が浮かべられるのみで政秀はそれ以上の言葉を語ろうとはしなかった。
その思惑の全貌が明かされたのは翌年、閏一月のこと。
彼は信長への嘆きと憂いを遺し、自らその命を絶ったのである。

玄稀の回想録

宣教師と共に

宣教師の船に乗り込み、早数日。
明朝には日本へ辿り着くだろうと聞かされてからは幾分か気分は和らいだものの、なにせ初めての船旅である。
一日の大半を横になって過ごさねばならないほどに内臓は疲弊し、もはや吐き出すものは何も無くなってしまった。

「もう二度と船なんか乗らねえぞ……」

甲板に両手両足を投げ出す形で横たわった男が、誰に聞かせるわけでもなく弱音を吐き捨て、涙交じりにぐすりと鼻を小さく鳴らす。
彼の名は、玄稀(げんき)。仮にも四神を名乗る立場でいるのだが、霊獣とて万能ではない。
連日、波に揺られ続けていれば、鬼であろうが蛇であろうが青空の下、気分転換に四肢を放り出したくもなるだろう。
――日出ずる国には魔王がいる。
偶然出会った宣教師からそう聞き及び、玄稀は国許を勢いのまま飛び出した。
元々、放浪癖のある彼は修行と称して長旅へとしばしば出掛けていたのだが、異国を目指したのはこれが初めての事だった。

「アイツら、今頃大騒ぎしてるかな……」

唯一の心残りと言えば、国許に残してきた実妹の夕稀と、愛弟子ましろの今後である。
書置きは残しておいたものの、玄稀のやることなす事をすべて模倣しようとする彼女らは自分たちも日ノ本を目指すと騒ぎ出すに違いない。
「まあ、騒いだところで今回ばかりは後を追ってこれないだろうしな。これを機にしっかり自立してもらいたいモンだ」
そう呟いた直後、再び吐き気が喉の奥からこみ上げてきた為、玄稀は慌てて寝返りを打ち胎児のように身体を丸めると、日ノ本到着まで意識を眠りの中へと沈めるべく目を閉じたのであった。


件の魔王は、建築途中である二条城の様子を眺めていた。
宣教師、ルイス・フロイスと共に目撃した男の姿は、確かに噂通り匂い立つような禍々しさに彩られていたものの、その態度は異邦人に対して随分好意的であるという印象を受けた。
天下をその手中に収めようとしている魔王ゆえ、高圧的な態度を取るのだろうと警戒していた玄稀たちは意表を突かれ、思わぬ歓迎に戸惑いすら覚えてしまう。
その上、フロイスの布教活動にあっさりと許可を下したのだ。
更に加えて彼は武者修行と称し、祖国を旅立った玄稀の身の上を知るや否や、

「青龍よ、我と共に天下を獲るか」

城が組み上がっていく様子を見据えたまま、魔王はにやりと不敵に口角を吊り上げながら玄稀に語り掛けてくる。

「この世で最も苛烈な戦に招待しよう」

紡がれた残酷な誘惑に、ぞくりと背筋が粟立った。

「いいぜ、アンタと一緒に戦ってやるよ」

この男の元であれば、その言葉通りに壮絶な戦いへと身を投じることが出来るだろう。
それが例え地獄へ通ずる誘いだったとしても、応じずにはいられなかった。

センリの回想録

狙われた骸

闇夜に紛れ、静まり返った寺社内に忍び込む不審な影がひとつ横切った。
夜半の見回り最中、予期せぬ事象を目撃した住職は思わずはっと息を呑み、行燈を手にした右腕を目いっぱい伸ばしてその正体を見極めようと目を凝らす。
しかし、影は既に見当たらない。
薄明りの中に浮かぶそこには化け物が這いずった跡などの痕跡も一切残されてはおらず、却って不気味さが増したようだった。
あの影は気のせいだと廊下を引き返したい思いに駆られる住職であったが、今日ばかりはそれが難しい。
日中、この萬松寺にて織田家の主であった信秀の葬儀が行われたのだが、未だ彼は棺に納められたまま、この寺社内にて安置されていたのだ。
火葬前の遺体にもしもの事があれば、次期当主であり〝尾張の大うつけ〟と称される信長が黙っていないだろう。
葬儀の際にも派手な装いでこの萬松寺に姿を現し、位牌へ抹香を投げつけるという粗暴な行いにて参列者たちの度肝を抜いた男である。
こちらの不手際が明るみに曝されれば最後、寺社に火を放ちかねなかった。

「様子を見に行くしかない、か……」

気は進まなかったが、正体不明の侵入者と信長、どちらが今の自分にとって脅威となるかを考えたとき、住職の脳裏に過ったのは湯帷子姿のうつけ者だった。
鬼より蛇より、若き織田家当主の存在がなにより恐ろしかったのだ。
意を決すると住職はその歩(あゆみ)を進め、信秀の眠る床の間へと足を踏み入れた。
何事も起きないでいてくれという住職の願い虚しく、行燈の照らす薄明りの先に不審な影を再度見つけてしまう。

「……っ!」

床の間へと突如差し込んだ灯りに驚いたのか、棺の中を覗き込んでいたらしいその影は慌てた様子でこちらに振り向いた。
その正体は、華やかな異装に身を包んだ猫耳の少女である。
虹彩異色の瞳と鋭い牙が煌めく彼女は恐らく〝マドウクシャ〟ではないだろうか。
尾張国知多郡の離れ小島には、骸を盗む化け猫が現れるらしい。
二十年の歳月を越えると猫は尾の先が二股に分かれ、三十年を越えると魑魅魍魎を従える妖怪になるという。
マドウクシャは更に気の遠くなるような月日の果てに生まれる物の怪で、人間の骸を奪う習性を持っている。
その中でも〝火車〟(かしゃ)と呼ばれる妖怪は火葬場や葬列に襲い掛かる凶悪な存在ゆえ、要人の葬儀が執り行われる際は陰陽師を招くことも少なくない。
実際、日中に執り行われた信秀の葬儀にも織田家お抱えである狛犬の化身が同席していたのだが、残念ながら彼の式神火車退治ではなく、葬儀場にいつまでも姿を現そうとしなかった信長の捜索手段に成り下がっていたという。

「そこで何をしている!」

住職が声を荒げると、マドウクシャの少女――センリは威嚇するような唸りをあげ、野良猫と変わらぬ挙動で棺から飛び退いた。

「昼間の犬っころがようやく居なくなったっていうのに……。今度は坊主かい?」

あどけなさの残る見た目とは裏腹に、彼女は老獪な言葉遣いを繰り出した。

「だが、経を詠むことしか出来ない坊主なんか、あたしの敵じゃないね。はらわたをブチまけられたくなかったら、今すぐ寝床に帰りな」

闇夜の中でもぎらりと凶悪に輝く犬歯はその言葉通り、人間の腹など容易に食い破る事が出来るだろう。
かと言って信秀の骸を差し出せば、信長にどんな仕打ちを受けるか分からない。
まさに前門の虎、後門の狼である。

「なんなら、今この場でアンタを殺して骸にしてやってもいいんだよ」

今すぐにでもこの場から逃げ出したいのは山々であったが、すっかり足が竦んでしまって動かない。
尾張のうつけとマドウクシャの板挟みにされ、住職は半ば思考を放棄しつつあった。
このままでは、どちらに転んだとて自分の命は失われるのだ。
恨むべきは、信秀の見張り役を引き受けた己の不運であろう。
もうどうとでもなればいい、と観念したように住職が視線を伏せた、その時だった。

織田家当主の骸を狙うとは、見所のある化け猫だ」

薄闇の中に、今度は仁王像の如く猛々しい影が浮かび上がった。
その影はセンリの背後から突如姿を現すと、彼女の首根っこを容赦なくむんずと掴み上げ、愉快そうに口端を歪ませている。

「にゃっ!」
「の、信長様……!」

闇夜よりいでし男の正体は、昼間この場所で位牌に抹香を投げつけた尾張の大うつけ――織田信長その人であった。

立葉の回想録

小谷城の戦い

そこは紛れもない、地獄であった。
戸は破られ、飛び交う怒号と鋭い斬撃の反響が遮るものを失くした勢いのまま、立葉たちの元まで真っ直ぐと届く。
遂に総攻撃が始まり、城内へと織田軍が流れ込んできたのだ。

お市様、御仕度を……! 藤掛殿の手引きの元、小谷城を脱出します」

しかし、お市はその腕に幼い娘を抱いたまま、ただ首を横に振るばかりである。

「せめて一目、もう一目だけでも長政様に……」
「無茶を言わないでください」

織田軍の狙いは言わずもがな、浅井長政の首だ。

「いくらお市様が信長様の妹君とはいえ、この戦況で長政様の元へ向かったらどんな仕打ちを受けるか……」
立葉はお市が浅井家に嫁ぐ以前、つまりは織田家に身を置いていた頃から侍女として仕える身の上であるが故、第六天魔王と恐れられる織田信長の性分も多少は心得ているつもりだ。

「何よりお市様たちの無事は長政様にとっての一番の望みなのです。さあ、御仕度を!」

叫ぶように促した、その時だった。

「どこへ逃げるというのだ」

混乱を極める戦場の真っただ中に、その低音は轟いた。
支配者と呼ぶに相応しい威圧をその背に叩きつけられ、声の主を確かめぬうちから立葉の身は竦んでしまう。
背後に佇む男が何者であるのか。問い質す必要も、振り返ってその姿を確かめる必要もない。

「兄上……」

桜の花弁の如く薄桃に色づいたお市の小さな形良い唇が、震えた声音を吐き出した。

「どうしてここに……!」
「そこの女、市を連れて逃げよ」

予想だにしなかった言葉を浴びせられ、立葉はようやく自らの背後を振り返り、威圧の元凶と真正面から対峙する。
甲冑に身を包み不敵に微笑むその男は、武将というよりも地獄からの使者と形容するのが相応しいだろう。
彼は尾張を統べる男、織田信長その人である。

「嫌でございます! 長政様を討つおつもりなら、市も共にその刃で斬り捨てて下さい」

しかし、彼女の懇願が受け入れられることはなかった。
信長が返答を紡ぐよりも早く、立葉は半ば突き飛ばすようにしてお市の身体をどんでん返しの向こう側へ押し込んでしまうと、細く長く続く隠し通路の先、闇の彼方を指さした。

お市様、行きましょう。この先で藤掛殿と落ち合う手筈になっております」

言いながら立葉は髪飾りの椿から花弁を一枚ちぎり取り、掌に乗せたそれに唇を寄せて吐息をふっと吹きかける。
すると、舞い上がった深紅の花弁は微かな輝きを放ちながら蝶の群れへと化け、導を示すように通路内を照らし始めた。

「さあ、参りましょう。生き延びて、長政様の想いに報いるのです」

薄明りの中に浮かんだお市の表情には拭いきれぬ程の絶望が浮かべられていたが、しばらくの間を置いた後、自らの決意を示すようにして眉根がきつく寄せられた。

「長政様がそう望むのなら……」

こうして立葉はお市たちと共に地獄と化した小谷城から脱出し、その身を今度は清州へと寄せたのであった。

賤ヶ岳の戦い

小谷城で味わった以上の地獄など、この世には存在しないはずであった。
だが今、立葉の眼前に広がる惨状は絶望という表現すら生温く、噎せ返るような血の匂いに思わず身を折って嘔吐きそうになる。

「勝家様、これは……」

足元に幾つも転がる柴田の側近と親族の亡骸は、いずれも腹を一刺しにされていた。
鮮血滴る太刀を手にしたまま屍の山の中で立ち尽くしている勝家によって齎された悲劇だという事は、言うまでもないだろう。
そしてその凶暴な切先が、今度はその傍らへ寄り添うお市に向けられた瞬間、立葉は膝から崩れ落ち、血の海へと浸かった。

「やめ……ッ、お市、さま……!」

長政の為に生きると約束したではないか。
しかし、立葉の想いは絶望と恐怖にまみれ、言葉に代えることが出来なかった。
そんな立葉の心境を汲んだのか、お市はこの地獄に相応しくない可憐な微笑みをひとつ零す。

「茶々を、よろしくね」

最期の望みを託したその直後、微笑みの余韻を仄かに残した実に安らかな表情のまま、彼女はその場に頽れた。
腹を刺し貫かれても尚、苦悶を見せなかったのは立葉への心遣いか、それとも地獄からの解放に安堵を浮かべただけなのか――。
今となっては確かめようのない真意であった。

「ここから今すぐに立ち去れ。間もなく、この城は焼け落ちる」

突き放すように命じると、勝家はお市の腹から刀身をゆっくり引き抜き血を払った。

「それとも、我らと共に地獄へ堕ちるか」

鼻先に突きつけられた切先が、死の予感を滴らせながらぎらりと鋭く輝く。
だが、命など――。

「私には、命など……」

当の昔に、喪ったのだ。



息苦しさに悶えながら、ようやく城外へと脱出を果たした、その時である。

「修理が腹の切り、様見申して後学に仕候へ」

天守閣から勝家の低音が雷鳴のように轟く。
敵軍の見守る中、彼は炎上する城の最中(さなか)でその腹を自ら十字に切り裂くと、侍臣の介錯によって実に壮絶な死を遂げた。

「私には、守れないのでしょうか……」

喪った命を蝶の羽に替え、現世に甦りを果たしたのはいつだったか。
羽ばたく度に死の鱗粉を撒き散らす、蝶化身。
立葉は己の絶命と共に生まれた物の怪なのだ。
死から生まれた蝶は、同時に死を喪う。
不死の存在でありながら、何者も死から救い出す事など出来はしない。
燃え盛る北ノ庄城を見上げつつ、立葉は思う。
お市の魂が蘇るのであれば、不死の蝶ではなく、今度は何度でも生まれ変わる事の出来る花の種であれ、と――。

秀吉の側室

櫛どおりの良いなめらかな長い髪を結いながら、立葉は己の頬をつい綻ばせてしまう。
主君を失って早幾年、彼らの忘れ形見である娘の茶々は世にも美しい娘となり、果ては天下をも手に入れた。
信長の死後、天下人の候補として世に躍り出たのは、長らく織田家に仕えていた羽柴秀吉という男である。
人のよさそうな顔立ちと気さくで陽気な言動ゆえ、とても戦上手には見えなかったが、浅井と朝倉の挟撃を掻い潜る兵(つわもの)だと聞き及び、立葉は大層驚いた。
そして忘れもしない、賤ヶ岳での戦い。
紅蓮の地獄を立葉の眼前に突きつけたそもそもの元凶は、秀吉率いる羽柴軍と柴田軍による争いなのだ。
勝家に壮絶な死を与えた男は、恐らく第六天魔王の志を継ぐ非情な戦人(いくさびと)に違いないと思い込んでいたのだが、元々の出自ゆえか、その振る舞いは武将らしかぬものばかりであった。
だが、茶々は言う。
秀吉ほどに恐ろしい人間を見たことがない、と。

「茶々様、あの……」

毛先からゆっくりと櫛を抜きながら、立葉はふと表情を曇らせた。
その美しさを見初められた彼女は、訪れた太平の世を秀吉の隣でどう感じているのか、と。

「あのっ、日々の暮らしに不便など感じてはおりませぬか? 些細な事でも構いません、何かありましたらどうぞ遠慮なくお申し付けくださいね」

長政を失い、お市をも失った悲劇の姫は、今を幸せに生きているのか。
真正面からそう尋ね損ねた立葉は苦し紛れの微笑で己の真意をはぐらかそうと試みたのだが、敏い茶々は脈絡のない申し出の真意を悟ったのであろう、苦笑交じりに呟いた。

「不自由はありません、怖いくらいに……」

畏怖の念を抱くほどに満たされた日々。
彼女は何を恐れているというのだろう。
いつかそれを失う日に思いを巡らせて怯えているのか、それとも与えられた幸福が数々の骸の上に成り立つ現実を嘆いているのか。

「茶々様……」

天下人の隣であれば、もう彼女は何も喪わずに済むと思っていた。
そして周りの死を看取るばかりであった不死の立葉も、今度ばかりは主の最期を穏やかな心持で迎えることが出来るだろうと予感していた――それなのに。


慶長二十年、再び立葉は紅蓮の地獄へと突き落とされる事となる。

大坂の陣

立葉がそこに足を踏み入れた時、茶々は秀頼の亡骸をその華奢な腕の中に抱いて、穏やかな微笑を浮かべていた。
母の膝上にてその身を横たえる秀頼の腹に深々と突き刺さっていたのは、一本の懐刀である。
鞘に繊細な細工が施されたそれは確か、秀吉が生前に茶々へと贈った品だった。

「よく来てくれましたね、立葉」

言いながら、茶々はその懐刀をゆっくりと、秀頼の腹から抜き取っていく。
瞬間、溢れる鮮血は、天守閣を焼く業火と同じく赤々と色づき、逃れようのない死の匂いで狭い籾蔵(もみぐら)の中を染めた。
真田の軍勢が呑み込まれ、あげく炎を放たれた大坂城は既に落城したも同然であった。
そんな中、茶々が秀頼と共に天守閣にて腹を斬ろうとしていると聞き及び、立葉は慌てて燃え盛る城内を走り回ったのだが、その目論見は家臣によって阻まれた為に彼女たちはこの籾蔵へと逃げ込んだらしい。

「茶々様、どうして……」

今度こそ救ってみせる、と。
ないも同然の命を文字通り投げ打って立葉は秀頼たちの生存を望んでいたというのに――。

「さあ、今度は私を秀頼の元へ連れて行って」

茶々は秀頼の腹から抜き去った懐刀を、今度は立葉へと差し出しながら、残酷に命じた。

「嫌です、茶々様……。どうか、私と共に逃げて下さい……!」

蝶化身は、不死である。例えこの身が焼けようと、切り裂かれようと、決して黄泉に還る事は出来ないのだから盾にしてくれても構わない。
泣き叫びながら立葉はそう訴えたが、茶々は静かに首を横に振った後、秀頼の亡骸をその傍らに寝かせて立ち上がり、手にした懐刀をそっと、しかし有無を言わさぬ意志を持って立葉の指に握らせた。

「太閤殿下が望んだ泰平の世――。それを齎す為には、敗者が必要なのです。落城を目前とした今、その役割を担わなければならないのは豊臣の名を継いだ秀頼と私……。分かるでしょう、立葉」

凛とした瞳に真っすぐと見据えられ、立葉はとうとう首を横に振って拒絶を示す事さえ出来なくなっていた。
恐らくここで立葉が逃げ出したとしても、彼女は他の家臣に介錯を――否、自ら喉を掻き切って命を絶つのだろう。
朗らかで、それでいて意志の固いその姿は、彼女の母であるお市とよく似ていた。

「私たちの亡骸は、決して徳川には渡さないで。この城で秀頼と共に、静かに眠らせて欲しいの」
「……っ、はい……」

握り込んだ懐刀ごと震える立葉の指先を、茶々が温かな掌でそっと包み込む。
その体温すらお市と似ているようでどこか懐かしく、愛おしい。
だが、その熱を立葉はこれから、自らの手によって奪い去らなければならないのだ。

「さよなら、立葉。泰平の世が訪れたら……今度こそきっと、あなたは大切な人を穏やかに見送ることが出来るわ」

それが、彼女が遺した最期の言葉であった。



その後、立葉は徳川軍の手により一時的な拘束を受けたものの「蝶化身に処刑は無意味であり、その他拷問も罰にならない」という理由で処刑を免じられる代わり、松代藩への従事を命じられた。
元和八年より藩主を勤めた真田信之は病に伏せる事がなにかと多い体質であったにも関わらず、その後、齢九十三まで生き永らえたという。
長寿の秘訣は、彼の傍らにいつも控えていた侍女による献身の賜物だと人々は噂したが、実際のところはどうであったのか、当人たち以外、知る由もない。

バレンタインのお返しに手作りチョコ&遊園地チケットをプレゼント

※当台本はフリー台本ではありません。依頼者様以外の使用は厳禁です。


―自宅にて―

わざわざ僕の家まで来てもらって、ありがとう。
驚いたでしょ? こんな古ぼけた洋館にひとりで住んでるなんてさ。まあでも、広くて静かだし。僕は結構気に入ってるんだよ。
えっ、お化けが出るんじゃないかって? うーん、今の所そういうのは見たことないけど……。でも、居るなら会ってみたいなあ。
君は怖いの苦手? あはは、そうなんだ。大丈夫だよ、こう見えて僕はホラー耐性強いから。それにここは僕の家だからね。お化けが出てきたときは、そうだなあ……。家賃請求して居候させてあげようかな。ふふ、冗談冗談!

えっと、実はね……。今日は、君に渡したいものがあるんだ。
これなんだけど、あの、ちょっと形は悪いかもしれないけど……。
でもね、頑張って作ったんだ。チョコレートなんて作るの、初めてだったけど、でも、どうしても自分で作りたくてさ。
ほら、今日はホワイトデーだから。なにかお返しをしなきゃと思って僕も自分で作ってみたんだ。市販品のマシュマロとかにするべきかなとか、それともお菓子じゃなくて何か別のものをプレゼントするべきかなとか色々考えたんだけど……。僕もね、君と同じチョコレートを作ってみたいと思ったんだ。
あはは、お菓子作りなんてロクにしたことないのにね。慣れてないから台所もグチャグチャになっちゃって、実はチョコレート作るよりも片づけの方が時間掛かっちゃったんだあ。
でも、凄く楽しかった。レシピ本を探すところから始まって、調理器具も揃えて、近所のスーパーまで材料を買いに行ったりして。
失敗もいっぱいしたけど、全然平気だった。どうしても君に喜んで欲しくて、夢中になってたんだ。こんなにも人の為に一生懸命になったの、久々だったかもしれない。
……僕ね、嬉しかったんだ。バレンタインの日に君からチョコを貰ったとき。味が美味しかったのは勿論なんだけど、なんて言うのかな……。その、あったかくなったんだ。
ああもう、上手く表現できない! 要するに、ええと、嬉しくて。
いやいや、嬉しかったってのはさっきも言ったか。うう、色々と伝えなきゃって思ってたのに、肝心の言葉が浮かんでこないよ。
と、とにかく! このチョコレート、君に受け取って欲しいんだ。
大丈夫、味は保証するから。僕が味見した時は美味しかったよ!
形はさっきも言った通り、ちょっと不格好になっちゃったんだけどさ……。型から取り出す時にね、少し崩れちゃった。
本当はハート形になる予定だったんだよ。でも、その……。見ての通り、なんかちょっと不格好だよね。い、一応ね、これはマシな方なんだよ。さっきも言ったけど、何回も何回も失敗しちゃってさ、なかなか綺麗に作れなかったんだけど、最後に出来上がったコレが僕の中では一番の仕上がりだった。そうは見えないけどね。あはは。
君から貰ったチョコレートがあんまりにも素敵だったから、僕も食べるのが勿体ないくらい綺麗で美味しいやつを作りたかったんだけど……。修行が足りなかったみたい。これを機に、お菓子作りの練習始めてみようかな。
そしたらさ、君に試食して欲しいんだけど、駄目?
え? 君が教えてくれるの? やったあ、ありがとう!
いつか君よりお菓子作り上手くなってみせるから、覚悟しておいてよね。きっと来年の今頃は……。うん、もっともっと美味しいお菓子を君にプレゼントするね。
だからその、良かったら……。来年も君のチョコレート、食べさせて欲しいな。

あっ、そうそう! 今日はこれだけじゃないんだよ。
というか、あんなに美味しくて素敵な贈り物のお返しが、こんなに不恰好なチョコレートじゃ全然釣り合ってないからね。
じゃーん、遊園地のペアチケット! いつだったっけ、君も行きたいって言ってたよね。だからさ、今日は僕と一緒に遊びに行こうよ。もちろん、君が良ければなんだけどさ……。
うん、じゃあ決まりだね。今日は丸一日、目一杯楽しもう!
あ、折角だからチョコレートだけじゃなくてお弁当とかも作っておくべきだったかな……。今から材料買いに行ったんじゃ遊ぶ時間が少なくなっちゃうし……。じゃあさ、今度二人でどこか遊びに行く時は一緒にお弁当作ろうね。僕は君に料理を教われるし、お昼ご飯の準備も出来るしで一石二鳥!
ね、約束だよ。きっと美味しいだろうなあ、君が作るお弁当。折角だから、今日の帰りに本屋にでも寄ってお弁当のレシピ本も買ってこようかな。
ふふ、楽しみなことが目白押しだね。

―遊園地にて―

ふう、初っ端から飛ばし過ぎちゃったかな。あんまりにも楽しかったから色んな乗り物で遊んじゃったけど……。大丈夫、疲れてない?
そっか、良かった。今日は君を楽しませるのが最優先だからさ。
……まあ、君以上に僕の方が楽しんでる感が否めないけどね。
でも流石に疲れちゃったから、少し休憩でもしようか。
どうする? カフェで何か飲みならがゆっくりするのもいいし、売店でポップコーンでも買ってそれをつまみながらベンチとかで休憩するのもいいけど。
……観覧車に乗りたいの? うん、確かにいいかも!
ここの観覧車、結構大きいから一周するまでにたっぷり時間あるみたいだし、景色も眺められて気分転換には良いと思うよ。
実は僕も、どこかのタイミングで乗りたいと思ってたから。
じゃあ、行こう。楽しみだね。

わあ、結構遠くまで見えるんだね。
ええと、僕の家は……。あそこら辺かな。どう? 見える?
えっ、どこどこ? あ、ホントだ! アレ、僕んちの屋根だ! 
君、目がいいんだねえ。ふふ、こんな高い所から自分の家を眺めるだなんて、なんだか不思議な気分だな。
ってことは、あそこが普段買い物に行くスーパーで、あの辺りが学校かな。で、君の家はあっちの方だったよね。どう? 見える?
あっ、あそこ! この間、オープンしたばっかりの水族館だよ。
ここからでも結構目立つねえ。相当大きいみたい。今度、一緒に行ってみない? イルカのショーとか見てみたいなあ。
……ただこうやって景色を眺めてるだけでも結構楽しいもんだね。
なんだか気持ちがスッキリするっていうか、落ち着くっていうか。
時間がゆっくり流れていく感じ、僕は好きだな。もちろん、折角遊園地に来たんだから色んな乗り物で遊びたいし、美味しいものだっていっぱい食べたいけどさ。
君とこうして二人きり、ぼーっとしてるのも悪くない……よね。
あはは、僕らしくないかな? 勿論、賑やかなのが一番好きだよ。
でもね、どうしてだろう。のんびりしたこの時間がさ、ずっと、ずーっと続けばいいなって。一瞬、思っちゃったんだ。
それぐらい、この空間が心地良いって事なのかな。ふふ、もしかすると……。普段はやかましいくらいの僕がこんなにもリラックス出来てる理由は、君と一緒に居るせいかも。
……なーんてね! らしくないこと言っちゃった。
なんだか良い雰囲気だったからさ、僕も流されちゃったみたい。
あ、そろそろ一周するみたいだね。さっきまであんなに高いところにいたのに、もう地面がこんなに近い。あっという間だったなあ。
なんだかちょっと、名残惜しいなあ。
あのさ。君さえ良かったらなんだけど……。もう一周、あともう一周だけ、一緒に乗っていたいな。ダメ?
……ん、ありがとう。じゃあ、このままもう一周乗っちゃおっか。
もうちょっと、こうしていたんだ。
ねえ、僕も、そっちに……。今度は君の隣に、座っていてもいい?
ふふ、なんだかヘンな感じ。今日は一日中、こうやって一緒に居るのにさ、まだまだ全然足りなかったみたい。
明日も明後日も、これからさきもずっと……。君との楽しい時間が続くといいな。