ハイスペック大人女子×冴えない喪女 2

初めて訪れた研究所内は、平凡な会社勤めであるルリの目には何もかもが新鮮だった。
虹彩認証機能やAI搭載の雑用ロボット等々、SF映画のスクリーンからそのまま飛び出してきたような、あまりにも非現実的な空間に思わず気後れしてしまい、進む足取りが慎重になる。
扇夏の職場を訪れたのは、これが初めての事であった。
昨夜、ルリの自宅で食事を共にした際に彼女が墜としたのであろう、ソファの隙間から発見された名刺入れを届ける為にこうして研究所へと足を運んではみたのだが――あまりにも自分は場違いのような気がして、居た堪れない。
事前連絡によると、彼女は現在、食堂にいるとの事であったが、なにせ広い建物だ。入館してから目当ての場所を見つけられるまで、たっぷり三十分ほど掛かってしまった。
一見、そこが食道であると気付けぬほどシンプルな作りの自動扉を潜り抜けると、無機質な内装に似つかわしくない、ほっとするような食欲をそそる香りが鼻を掠めた為、非日常感が僅かに薄れる。

「ルリちゃん、遅かったじゃない」

と、その時だった。
遠く離れた壁際の席から、箸を持った手を大きく掲げて扇夏がルリの来訪を歓迎した。
タイトなミニスカートのワンピースの上から真っ新な白衣をさらりと纏い、研究所員という立場には似つかわしくないピンヒールを履きこなす彼女の姿は知性と奇妙な色香が漂っている。

「ご、ごめんなさい。先生……」

慌ててルリは扇夏の腰かけた席まで小走りに近づくと、鞄の中から早速と彼女の名刺入れを差し出し、困惑したように眉尻を下げてしまう。

「なかなか食堂が見つけられなくて……。お待たせしてしまいましたよね。お忙しいのに、本当にごめんなさい」
「まったくもう、待ちくたびれちゃったよ。ルリちゃんが職場に来てくれるっていうから、めちゃくちゃ楽しみに待ってたんだからね」

大袈裟に肩を竦めながら唇を尖らせた扇夏であったが、その口端がにやりと吊り上がっているところから察するに、この叱責が彼女なりの冗談であることが窺える。

「ルリちゃん、お腹空いたでしょ。コレ届けてくれたお礼に私が夕飯奢ってあげるから、そこのカウンターで好きなご飯貰ってきたら?」
「……いいんですか? すみません、ありがとうございます」

彼女の指摘通り、会社で昼食を取って以降、何も口にしていなかった状態で広い研究所内を歩き回ったものだから、先ほどからぐうぐうと腹の虫が鳴りっぱなしだった。
促されるままルリはカウンターへ向かったのだが、その最中、この広い食堂内に扇夏以外の姿が見当たらないことに今更気が付いてしまう。
他の研究所員たちは皆、既に帰宅してしまった後なのだろうか。いや、施設の稼働上、それはあり得ない話である。

「先生は、いつもお一人で食事をとっているんですか?」

うどんの載せられた盆を片手に扇夏の隣席へと腰を下ろしながら、ふと浮かんだ疑問を率直に尋ねてみた。
すると彼女は実に美味そうに茶を啜りながら、まるで何でもないことのようにあっけらかんと、こんな台詞を口にしてみせたのだ。

「私、友達いないのよね。仕事場に友人関係は持ち込みたくない主義だし、かと言ってプライベートで交流してる人間だって、ルリちゃん以外にはいないしね」

驚きの事実であった。
才色兼備でエリート職に就いている彼女のことだから、人付き合いは広く行っているものだとルリは思い込んでいたのである。
元々の性格も明るいゆえ、てっきり気の置ける友人たちに囲まれてさぞ充実した毎日を公私ともに送っているのだと予想していたのだが――この点においては、内気な自分と状況は変わりないのだなと思わずルリは肩を揺らして笑ってしまった。

「私たち、意外と似た者同士だったんですね」
「あら、ルリちゃんもお友達いないワケ? ま、私と過ごす時間がその分多くなるってことだし、今後もルリちゃんには友達なんて作らないでいてほしいけど」

くすくすと笑うルリに釣られるようにして、扇夏もまた、悪戯っぽい微笑で口の端を歪めてみせる。

「私は可愛いコイビトさえいれば十分だな。ルリちゃんも同じ気持ちでいてくれると嬉しいんだけど……?」

ふと互いの距離が近づいた。
突然の口説き文句に、ルリはうどんを啜る手を思わずぴたりと止め、箸を握ったまま目の前の笑顔に見入ってしまう。

「えと、その……」
「なあに、即答出来ないの?」
「ちっ、違います! ちょっと、ビックリしただけで……」

勿論、扇夏さえいれば今更友人など必要ないと感じていたのはルリも同様であった。
が、しかし――こう改めて、面と向かってその気持ちを直接相手に伝えるのは、少々気恥ずかしくて躊躇われる。

「もちろん、私も……。先生と同じで……」
「同じで?」
「うう……。せ、先生さえいれば、他には何もいりません」

照れ隠しにうどんをもぐもぐと咀嚼しながら、少々行儀悪く白状すると、扇夏は嬉しそうに目を細め、より一層その形良い唇をにっこりと吊り上げて端正な顔立ちに満面の笑みを浮かべてみせた。

「わお。私以外、他には何もいらないだなんて随分と情熱的な言い回しね」
「せ、先生が言えっていったんですよ!」
「あはは、ルリちゃんのそういうトコ可愛くて好きだよ」

どこまでも上手な彼女に振り回されてばかりの自分が少々情けなくなったものの、恐らくは一生涯、扇夏に対してイニシアチブをルリが握る事はないのだろう。
悔しいような、それでいてどこか嬉しいような――今までに体感したことのない奇妙な感情に包まれながら、ルリは残りのうどんを啜り始めたのだった。

(以下略)
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