吸血鬼悲恋物 BAD END

出会ったのはいつの頃だったか、もうそんなことすら思い出せなくなっている。
あれだけ啜った血の味でさえ、記憶と共に色褪せ消えていった。
あんなにも狂おしく愛した、君の面影を僕はもう辿ることが出来ない。



夜の帳は今朝方から降り続く霧雨によって白く濁り、冷めた靄が静まり返った街を不気味に揺らめきながら包んでいた。
しかし、アスファルトに叩きつけられる雨音は鼓膜によく馴染む懐かしい響きを孕みどこか心地よく、薄気味悪さと安堵が混沌する世界に自分が少しずつ沈んでいく感覚にふと襲われる。
雨に打たれ始めてからどれくらい経っただろうか。
とうに膝の力は抜けて支えを失った身体は路地へと崩れ落ち、これだけ全身を濡らされたにも関わらず唇は血が滲むほどに乾ききっていた。
飢えを凌ごうと口端から少しずつ溢れだすその赤い雫を舌で掬い取り喉を鳴らして飲み込んでみたものの、やはり自らが流したそれでは何一つとして満たされることはなく、むしろ空腹を煽る惨めな思いに囚われるだけである。
いっそのこと、青白いこの皮膚に食らいつけばせめて気休めにはなるのかと何度も苦悶したが、寒さに震えるこの腕に牙を沈めたところでそれはただの独りよがりであることには変わりがない。
そして、街に朝が訪れると同時に終焉を迎えることになるのだ。
雨雲の隙間から一筋でも金色に輝く陽の光が差し込めば最後、この哀れな肉体は灰となり、静かな街に吹きすさぶ風に乗せられ散り散りに消えていくだろう。
人間の血を食らい生きる種族の力が最も弱まる聖木曜日を狙った招かれざる訪問者たちに眠りを解かれ、鉛で下腹を撃ち抜かれたのは一刻前のこと。
鼻をさす灯油の匂いが部屋中にたちこめた次の瞬間、辺り一帯は火の海となり闇夜を不吉な赤色に染め上げた。
霧雨の中でも轟々と燃え盛る仮住まいとしていた廃屋から逃れたものの襲撃を企んだ愚かな人間たちに天誅を下す力は生憎残されておらず、人目のつきにくい路地裏に身を潜めることが精一杯だった。
望まぬ目覚めを強いられた上、急所には銀の銃弾、加えて聖木曜日の呪縛に苛まれた身体はみるみる生気を失い、命の灯火は今にも消え去ってしまいそうなほどに細々と揺れ、迫り来る死の影を瞼の裏へと映し出している。
自分は、死んでしまうのだろうか。
ここ数百年の間、吸血鬼にとって随分と生きにくい世の中に変わってしまったと実感することがある。
人間たちの間で次々と強力な武器が普及していくにつれ吸血鬼や魔女狩りは勢いを増し、気がつけばこの街で同胞を見かけることはなくなっていた。
闇にまぎれて生きる限り、そして生き血を啜り続ける限りは不老不死と謳われた吸血鬼の時代は知らぬ間に終わりを告げ、かつては夜空を覆い尽くさんばかりに生息していた蝙蝠ですら吸血鬼の生み出した不吉な下僕であると巣ごと焼き払われ、その姿をすっかり消してしまった。
立ち並ぶのは世相を反射しながら眩しく光るガラス張りの高層ビル。そして、夜を恐れぬ人間たちの徘徊と目を背けたくなるほど鮮やかに街を照らし続けるネオンの輝き。
夜が短くなった街で生き存えるのは言うまでもなく困難を極めた。
この街に残されたのは、死の淵を彷徨う身体ひとつ。
それさえも失いつつある今、もはやこの世界に吸血鬼の居場所など存在しないのではないかと自己嫌悪に陥られずにはいられない。
すべてのものは朽ち果てていく運命にあるというのに、何故、人間だけは数百年経った今も生き延びていられるのか。

「ッ、は……」

街を包む霧が一層濃くなった。
いや、己の視界に霞がかかりだしたのか、目に見える全てが白く掠れだし、雨音や路地裏の死角をとめどなく行きかう喧騒は耳元からどんどんと遠ざかっていく。
いよいよ、この身体が灰になる瞬間が来たのかと視力を失いつつある瞳を伏せた、その時だった。

「あなたは、このまま死んでしまうの」

耳鳴りさえ遠ざかりつつあった耳に届いた、雨音の心地よさと同調する物静かで柔らかな女の声。
もう二度と開くことはないだろうと覚悟していた瞳をそっと開けると、霞の向こう側には一人の女が傘もささずに立ち尽くしていた。
掠れかかった視界でははっきりと確認することが出来なかったが、雨に打たれ下腹から血を流した吸血鬼を恐れている様子は伺えない。
ただ、憐れみも嘲りも見当たらないガラス細工のような平坦な瞳でこちらを見下ろしているだけだ。
魔力を半ば失い人間の姿を保つことが出来ず、飢えた牙をむき出しにしたまま虫の息を繰り返すこんな姿を晒した男の正体が吸血鬼だと気づけぬはずがないというのに、目の前の女からは恐れを感じることが出来なかった。
時代の流れに逆らうことが出来なかった哀れな吸血鬼の最期を看取りに来た天の使いか、はたまた地獄へと誘う死神だろうか。

「どうすれば、あなたを助けられる?」

しかし、雨音に乗って彼女の唇から吐き出されたものは天使も死神も決して口にはしないだろう、延命の方法を求めるものだった。
そして彼女は、こちらが答えるより先にその場に膝をついて長い髪をかき上げると、露わになった白い首筋をこちらへと差し出しそっと目を閉じる。
傷ひとつない滑らかなその白肌は滅びかけた吸血鬼の目には眩しく、思わず喉を鳴らさずにはいられない。
女がどういったつもりで息も絶え絶えの吸血鬼に対し自らその首筋を差し出すのかは分からなかったが、理由を深読みする余裕など残されているはずもなかった。

「まだあなたに生き延びる心が残っているなら、私の血を吸って」

女が言い終わるや否や、渾身の力を振り絞り誘われるがままその首筋に唇を寄せ、飢えの為か歓喜の為か、小さく震える牙をその白肌へと少しずつ埋めていく。
それでも女は表情を歪めることはなく、そして悲鳴ひとつあげることもない。
ただ、失いかけた命を繋げようと目の前の血を啜り上げる吸血鬼の乱れた呼吸だけが行き場もなく宙を舞った。

「可哀想な人」
「……は、ッ……ハ……」
「他人を犠牲にする以外、生き抜く方法がないなんて」

闇夜が蠢く路地裏の中でも映える純白と真紅のコントラストは何物にも形容しがたい美しさを放ち、朽ち果てかけたこの身体を潤し満たす。
その瞬間、失いつつあった五感が全て舞い戻ったような気がした。



あれからどれだけの月日が経っただろうか。
突然の天変地異に見舞われた世界は瞬く間に崩壊の道を辿り、人間が作り上げた軌跡は何一つとして残らなかった。
地上を覆いつくしていた忌々しい高層ビルはひとつ残らず崩れ落ち、かつては絶滅の危機に曝されていた同胞も今では夜を迎えるたびに地上へと降り立ち、生き残った僅かな人間たちを糧として逞しく生き延びている。
理想の世界だった。
君がいなくなってしまったという、ただひとつのことを除いて。
「どこへ行ったんだ、こんな場所へ俺だけを置き去りにして」
例え呪われたこの身体で生き易い時代が訪れようと、君がいなければ僕の世界は何の意味も持たないというのに。




彼女に案内された廃屋は、繁華街のはずれにひっそりと佇む病院跡であった。
虫に食い荒らされ穴だらけのシーツの上、砂と埃をかぶった医療器具が転がっている。
人の手によって相当荒らされていたが、割れた薬瓶の破片が散らばる床に真新しい足跡や人為的な破壊の意思が見当たらないところから察すると、ここ数年は少なくとも人の出入りはないのだろう。
夜明けとともにすっかり雨はあがってしまったのか、崩れかけた壁の隙間から眩い朝の気配が漏れ始めた為、陽光から逃げるようにして廃屋の奥へと進む。
行き着いた場所は手術室だろうか。頑丈なコンクリートの壁は待合室や処置室と違い未だ崩れ落ちることはなく、一筋の光も届かぬ完全な暗闇がそこには存在していた。

「傷の具合はどう」

暗闇にすっかり溶けた女は表情と同じく、抑揚のない口調でそう問いかける。

「あれだけの瀕死に陥った場合、吸血でどのくらい回復出来るのかは分からないけれど、でも自分の足でここまで歩いてこれたところを見る限り心配はないみたいね」
「……人間くせに、どうしてそんなことを知っている」

アナログを失いつつあるこの時代で、吸血鬼の実態を知る者は少ない。
ハンターの類かと、生気を取り戻しつつある手のひらを握りしめ、いつでもその華奢な肉体を切り裂けるように身構えたが、女は暗闇の中で小さく首を横に振り問いかけを否定してみせると、初めてその表情に小さな笑みを浮かべた。

「かわいそうな吸血鬼を一人、知っているの。もうずっと昔のことだけどね」

哀愁ばかりの漂う、決して誰にも救われない微笑だった。




それからというもの、彼女は毎夜のこと吸血鬼が身を潜める廃病院に足を運んではその白い首筋を差し出し、吸血を自ら懇願した。
いつしか、しなやかだった彼女の体は不健康に痩せ細り、透明感溢れる白肌には青みが差し、血液を失うことで一歩ずつ死へと歩み寄っていく様が伺えたが、これは吸血鬼に魅入られた女の運命である。
吸血の際に首筋から全身へと広がる麻薬のような癖のある快感を自らの意思で断ち切ることは難しく、命が奪われるその瞬間まで心身ともに吸血鬼へ捧げ、最期には真紅の灰となり消えていくのだ。
以前、吸血鬼に出会ったことがあると語っていたが、その吸血鬼には魅入られなかったのだろうか。
それとも、彼女が朽ち果てるより先に吸血鬼がハンターの手にかかり始末されてしまい一命を取りとめたのか。
幾度となく尋ねてみたものの、彼女は口を閉ざし、ただ哀しげな微笑を浮かべ首を緩く横に振るだけだった。
しかし、出会ったあの日と同じ霧雨の降る夜のこと。
吸血鬼の胸にしなだれかかり、今にも消え入りそうな頼りなくか細い呼吸を繰り返す彼女がふと口を開いたのだ。

「彼女と初めて出逢ったのは、夢の中だった。私がベッドで眠っていると、部屋に忍び込んでは私のことを抱きしめて優しく囁くの。あなたと私は光と影。例えどちらかが死の淵に堕ちたとしても、互いの心を決して分かつことはないと」

あれほど頑なに語ろうとはしなかった過去に出会ったという吸血鬼の話を、静謐さを纏う彼女がこれほど饒舌に語る様子は珍しかった。
どことなくその口調に陶酔のような趣が感じられ、どうやら回想に浸りながらその身体ごと胸に秘めた思い出の中で溺れていることが窺える。
非常に彼女らしくない、非現実的な御伽噺だった。

「あなたには分かる? 人間と吸血鬼が、性別や生死をも超えて惹かれ合うもどかしさが」
「お前がどれほどその女吸血鬼に入れ込んでいたのかは知らないが、生憎、擬似恋愛は吸血鬼の常套手段だ」
「そんなこと、分かってる。でも、彼女だけは違ったの」
「何が違うんだ。吸血の快楽に魅入られたお前は、こうしてその女吸血鬼の代わりに俺を見つけ出したんだろう」

彼女と出会って、どれほどの時が経っただろうか。
ここへ来て彼女は初めて哀愁以外の表情を、その美しくも無機質な顔に強く浮かべてみせたのだ。
眉間に寄せられた深い皺と鈍く光る鋭い視線、わなわなと小さく震える唇から発せられるのは憎悪交じりの憤怒である。

「ちがう、ちがう……!」

どれだけ彼女が声を荒げたところで、血の気をすっかり失った蒼白の頬に赤みがさすことはなかった。
しかし、人間味が欠落していると思われた彼女がここまで感情を露に曝け出し激昂する姿を目の当たりにした吸血鬼は眉を顰め、否定の言葉を繰り返しながら激しく首を横に振り続け取り乱す彼女の背中を掻き抱くと、再びその首筋に唇を落とし牙を突き立て、その血を全て吸い尽くすことで宥めようとしたのだが、小さな身体を震わせながら興奮と絶望に曇った瞳でこちらを見上げるその表情があまりにも痛々しく、思わず吸血の手を止めてしまう。

「吸血鬼に取り付かれた人間の結末は、あなたが言った通り紛い物の愛情に振り回されて死んでいく……。ただそれだけよ。でも、あの子は私に生きろと言った。そうして吸血を止めたあの子は私の代わりに死んだの。雨の日、あなたが路地裏で苦しんでいたように彼女も飢えて我をなくして、それでも私の血を吸おうとはしないで朝日が昇ると同時に真っ白な灰になって風に散らされ消えてしまった。あんなにも愛していたのに、私は彼女の亡骸さえひと掴みも手にすることが出来なかった」

美しく無機質だったはずの表情は、彼女がその感情を露にすればするほどに醜く歪み、目元には穢れのない純白の肌に不似合いの隈が目立つようになっていた。
これほどまでに彼女が己という形を失うまでその女吸血鬼に魅入られた理由は、吸血がもたらした愛情の幻とは別にあるようにも思える。
それよりも、腹におさめる生き血ある限り、そして特殊な処刑を施されない限り死とは無縁である吸血鬼が糧である人間の命を優先して自らは朽ち果てていったという事実が、同胞として信じられない。
吸血鬼に魅入られその生き血を啜られた人間は死後、吸血鬼として生まれ変わるという。
しかし、吸血鬼としての生命もなくした場合は文字通り、灰と化すだけである。輪廻からは除外され、生まれ変わりを許されることは二度とないのだ。
訝しげな表情を浮かべ沈黙を守る吸血鬼の心の内を悟ったのか、彼女は歪みきった表情に不気味とも思える笑みを浮かべ、吸血鬼の耳元で囁いた。

「早く、殺して。私が彼女に抱いた全ての想いをあなたにあげるから。お願い、私の中をカラにして。私はもう彼女の顔を忘れてしまったのに、愛しさだけはどうにも消し去ることが出来なかったから」

このとき、吸血鬼には彼女の意図が掴めなかったが、彼女に望まれるまま蒼白の首筋に再び牙を沈めて残りの血液を吸い上げたその瞬間、すべてを悟ることとなる。
喉を潤す彼女の血液に染み込んだ、今は亡き女吸血鬼への積もりつもった恋焦がれる想いの全てが受け継がれてしまったことを。

「ねえ、今のあなたになら分かるでしょう。人間を愛してしまった彼女の想いと、吸血鬼を愛してしまった私の想いが」

今度は、自分が恋の呪縛にその心を支配される番だった。



翌朝、彼女はかつての美しい人間の姿を真紅の灰へと変え、脆く朽ち果てその生涯を終えた。
彼女の思惑通り、吸血することによって彼女が長年抱き続けていた叶わぬ恋へのもどかしさを受け継いでしまった吸血鬼はその灰をかき集めると、どこかで吸血鬼として生まれ変わったであろう彼女を来る日も来る日も探し彷徨い続けたが、結局は再会を果たせぬまま、十年、二十年と無情にも月日ばかりが過ぎていき、ただ彼女への想いばかりが募る日々が長く続いた。
やがて、あんなにも愛しく、そして見惚れるほど美しかった彼女の顔が思い出せなくなった頃、時代は一変することとなる。
何の前触れもなく訪れた天変地異は人間たちを地獄へと誘い、生き残った者たちにさえ、もはや成す術もなかった。
混沌とした時代を迎えた地上は吸血鬼にとって実に住み心地の良い場所であった。
かつて、自分が食い殺した人間たちが吸血鬼として生まれ変わり、かつての同胞であったはずの人間を食らう。
そんな光景を目にすることも珍しくない世界で、なぜだろう、彼女の姿だけが見当たらなかった。
想いばかりが募り、やがては抱えきれないほどに膨れ上がって思考の全ては彼女一色に染まる。
彼女がかつて経験した恋とは、こんなにも報われず、こんなにも先が見えないものだったのか。
未だ奇跡的に崩れ落ちることを免れている鉄筋ビルの上から見渡した世界が、吸血鬼にとっての理想郷であることは今も変わりがなかった。
人間の目を恐れる必要もなく、飢えに苦しむこともない。ただ本能のまま、殺戮を繰り返しては己の腹を満たし生きていられる夢のような現実である。
しかし、恋心とは実にやっかいなもので、愛しい女がたった一人欠けただけで生き易い世界は白と黒の二色に色褪せ、まるで価値のないもののように思えてしまうのだ。
身を焦がすほどの恋心までもその身に受け継いだ吸血鬼が現世で生きていく理由など、彼女なしでは見出すことも出来なければ歩む必要性すら感じられなかった。

「俺に愛されたくて死んだのか、それともかつて自分を愛した吸血鬼を忘れるために死んだのか……」

小瓶に閉じ込めた人間としての彼女の亡骸である灰を夜空に散らし、風に乗って煌きながらモノクロの世界へ同化していく様子を見下ろしながら誰に問うわけでもなく尋ねて見たものの、もちろん、答えなど永遠に還ることはない。

「これで報われたのか、俺にすべてを押し付けて。俺はお前を愛したけれど、愛した瞬間にいなくなるなんて救われないことは最初から決まっていただろう。俺はどうすれば良かったんだ」

煌めく空に向けた悲痛な叫びと真紅の灰が、胸に残された想いと同じく行き場をなくして宙を舞う。
そんな、もてあました愛情を手放す方法はただ一つ。

「ただ、俺はお前のように誰かへ自分の想いを託したりはしない。その代わり、俺の全部をお前に還すよ」

彼女が遺した灰が紺の夜空に溶けて見えなくなったと同時、吸血鬼は銀のナイフを己の胸に突き立て、その身を色褪せた地上へと投げたのである。